加害者が女性だと「いい思いをしたな」と言われてしまう
特に加害者が女性である場合、事実を誰かに打ち明けると「いい思いをしたな」「うらやましい」といったリアクションも多いため、被害者もより強く「あれは被害ではなかった」と思うようになります。でも、本当はイヤだった。自分の尊厳が踏みにじられてしまった。そのことにフタをして生きると、いつかバランスが崩れて心身に不調があらわれます。
性暴力への理解がない社会は、こんなふうに被害者を追い詰め、口を塞ぎます。その性行為が暴力であるか否かは、「同意の有無」を基準に判断されるべきものです。快感があったかどうかは、関係ありません。
性被害の認識しやすさ、打ち明けやすさには、ほかにも加害者との関係や家庭環境などいろいろな要素がかかわっています。社会のあり方も重要な要素です。
「性暴力=同意のない、すべての性的言動」ということが周知された社会のほうが、性被害を受けたと認識しやすいのは間違いありません。なぜなら、快感があったとしても、男児本人が「でも自分はしたくなかった、これは暴力だ」と認識できるからです。また、性的マイノリティへの理解がある社会では、男性も「同性愛者だと思われたらイヤだな」とためらうことなく被害を誰かに打ち明けたり、被害届を出せたりするでしょう。
「本当にイヤなら抵抗できたはず」の呪い
加えて、「弱い」ことを男らしくない、情けないとみなす風潮が強い社会では、男性は、性被害はもちろん、どんな被害でも口にするのをためらいます。被害に遭うこと自体が、男らしさのイメージから外れるのです。
性被害についての誤解のひとつに、「本当にイヤなら抵抗できたはずだ」というものがあります。女性に対してもよくいわれますが、男性は腕力が比較的あるぶん、この言葉が特に刺さるでしょう。しかし、子どもは身体的にも脆弱ですし、先述したように小児性暴力の多くはグルーミングを利用して行われます。成人でも社会的な力関係を利用した――つまり“逆らえない”相手からの性暴力に対して、抵抗するのはまず無理です。性暴力被害は被害者が弱いから起きるものではなく、加害者の欲望が歪んでいるから起きるものです。
男性に過度な男らしさを求め、泣いたり、弱みを見せたり、愚痴をこぼしたりといったことを許さない社会は本来、性被害を受けた人だけでなく、ほとんどの男性にとってしんどいものだと思います。