※本稿は、芦垣裕『米ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
お米で最もメジャーなコシヒカリはこうして誕生した
お米の品種の中でも最も有名なコシヒカリ。そもそもコシヒカリはどのようにして誕生したのでしょうか。
コシヒカリの産地としても有名な新潟県や北陸地方は、日本を代表する水田地帯です。元々、土地の約6割が湿田で占められており、お米以外の農作物を作るのが難しい土地だったので、農家は稲作に力を入れていました。
こうした農作環境で代表的だった品種は、コシヒカリの父親でもある「農林1号」というお米でした。
農林1号は、湿田での栽培に向き、早い時期に収穫できる早生品種です。さらに多く収穫できる性質がありながら、食味も良く、農家に人気のお米でした。しかし、病気に弱く、倒れやすいという欠点があり、1940年頃から徐々に生産が減っていきました。
一方、この頃の日本は第2次世界大戦の最中で、食料供給が逼迫していました。そこで、食糧難の解決のため、早生で多収品種という農林1号を何とか病気に強くできないかと改良が進められました。
こうして行われたのが、病気に強い「農林22号」との人工交配です。人工交配は、1944年に新潟県農事試験場が行いました。さらに、交配して実った種の中からより品質の良いものを選抜して育成し、また選抜して育成するという繰り返しを10年以上の時をかけて行います。
「早生で多収穫」×「病気に強い」、かけ合わせで品種改良
しかし、戦後になると食糧が足りない状況に拍車が掛かり、コシヒカリよりもさらに多収品種が必要となったため、コシヒカリの育成研究はしばらく中断してしまいます。その後、コシヒカリの育成場所は福井農事改良実験所(後の福井県立農事試験場)に移ります。
実は、農林1号と農林22号のかけ合わせにより生まれた品種は、コシヒカリ以外にも、ササニシキの母としても知られる「ハツニシキ」のほか、「ホウネンワセ」「ヤマセニシキ」「越路早生」と様々でした。このうち、当初は、病気に強くて多収で作りやすいホウネンワセが生産者には喜ばれ、1955年にコシヒカリよりも早く農林水産省で新品種として登録されています。
一方、コシヒカリは当初「越南17号」と呼ばれ、味は良いが病気に弱く倒れやすいという農林1号の性質を強く受け継いでいたので、栽培が難しいとされていました。
しかし、当時の新潟県農事試験場長などが、「栽培方法を研究すれば欠点を補えるのではないか」と考え、ホウネンワセが品種登録された翌年の1956年に「農林100号」として登録されるに至りました。そして、新潟県で栽培が始まったのです。
ちなみに、お米は農林水産省に新品種として登録されると、育成した県の試験場がカタカナで品種名をつけられるという決まりがありました。