実弟は「今まで信ずるはずもないものを信じようとした姉」

これは身内にしか書けないリアルなエピソードだ。嘉子さんの実弟である武藤輝彦さんは「ガンと判ってから、もっともっと積極的な治療を本人は望んでいたのではないかと思います。とにかく今まで信ずるはずもないものを信じようとした姉」と振り返っている。嘉子さんは最初に判事として名古屋地裁に赴任したとき、ある人からしつこく宗教に勧誘され、「入信しなければ、(当時小学生だったひとり息子の)芳武くんにまで累が及ぶ」と脅されたことに懲りて、それ以来、宗教を遠ざけてきたというが、不治の病となって「神にもすがりたい」気持ちになったのだろう。

しかし、宗教ではなく、法律家として「法」の論理で動いてきた嘉子さん。最期にはその葛藤を乗り越えたのか、病院のベッドで息絶えた瞬間、「ロザリオは枕頭にはなかった。そして、義母の葬儀は無宗教式で行われた」と茂さんは書いている。

そうして家族には病気になってしまった悔しさや悲しさ、心の弱さを見せていたが、一方で、裁判所の元同僚たちなど、仕事上で知り合った人たちには、見舞いの電話や手紙をもらっても冷静な余裕ある態度で接し、心配をかけないようにしていたと、多くの人が証言している。

三淵乾太郎、嘉子 鷲羽山にて(1958年撮影 月日は不明)
(c)三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ
三淵乾太郎・嘉子夫妻、鷲羽山にて(1958年撮影)

ぽっちゃりめで愛らしく、裁判所のマドンナ的存在だった

私たちはついドラマの寅子と実在した嘉子さんのイメージを重ねてしまうが、実際にはどんな印象の人だったのだろうか。『追想のひと三淵嘉子』では、嘉子さんの容姿はこう表現されている。

「丸ぽちゃの顔」「まあるいお顔に可愛らしいエクボ」「眉毛の濃いキリッとした、それでいて福々しいお顔」「色白」「ふくよかな体」「たっぷりと豊かなお姿」という言葉で形容されるように、少しぽっちゃりとした健康的な外見だったようだ。嘉子さん本人も「私、太っているから」と明るく言うこともあった。

その言動や態度についても、「生き生き」「はつらつとして」「大きい声で高笑いする」「例の闊達な調子でカラカラお笑いになり」と綴られている。体格といい、エネルギッシュな様子といい、病気とは無縁の存在のように見えていたようだ。それだけに、がんの闘病に入って1年余りで亡くなったことに落差があり、周囲はショックを受けたのだろう。

上記のような言葉に加え、男性も含め多くの人から「まことふくよかで、美しい」「きれいで魅力的」「においたつような美しさがあり」「童女のように愛らしい」女性だったとも書かれている。その人間的魅力あふれる姿から、裁判所ではマドンナ的存在でもあったらしい。自身も「英国紳士風の美男子」と言われた裁判官の乾太郎さんが、嘉子さんと再婚する前、「あの和田君(嘉子さんの最初の結婚後の姓)が僕のところなんか来てくれるもんですか」と自信なさげだったというのも、納得できる。

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