森林地帯スンダルバンの危機的状況
近年私が実際に関わっている海洋遺産のひとつに、世界最大のマングローブ林のひとつ、バングラデシュの「スンダルバン」があります。ガンジス川のデルタ、ベンガル湾にまたがり、総面積は14万ヘクタールに及びます。
干潟、潮汐水路、塩水でも生息できるマングローブ林の群生する島群などで構成され、生態学的プロセスの宝庫ともいわれ、260種の鳥類やベンガルトラに加え、絶滅危惧種のワニや蛇なども確認されています。
現在、スンダルバンで指摘されている問題は、近年、政府が進めてきた火力発電所をはじめとする沿岸部の大規模開発です。それ以前に数回起こっていた輸送船の事故による水質汚染の問題もあり、自然遺産として危機的状況にあるとみなされてきました。
この火力発電所については、欧米諸国のNGOが中心となり、かなり詳細な調査を基にバングラデシュ政府に対する警告をしています。世界遺産委員会での議論の際、バングラデシュ代表団には大臣も務めたことのある特別顧問が参加されており、国土が狭く人口が増加する自分の国には、どうしても必要な施設であり、後戻りはできないのだ、と力説されたことが印象に残っています。
私自身も2021年ごろ、バングラデシュの遺産管理担当者の皆さんの理解を深めてもらうため、世界遺産の基本と、「開発プロジェクトの遺産への影響評価」に特化した特別講座を開催したことがありました。担当官レベルでは皆さん熱心に参加され、議論も盛り上がりました。
国政の影響を受ける世界遺産保持の難しさ
しかし2023年の世界遺産委員会では、我々事務局と諮問委員会であるIUCNが委員会に提案した決議案についての議論が、予想しなかった展開を見せました。
直前までバングラデシュ政府筋から、事務局からの決議案を、小さな変更だけで大筋は受け入れると言われていたにもかかわらず、国政選挙をにらんで中央政府からの指示による世界遺産メンバーへの働きかけが行われ、大きな修正を提案されました。
2晩にわたる「ドラフティンググループ(委員国有志による決議案修正を検討する作業会)」による折衝の結果、決議案は大幅に書き換えられ、次回の義務報告は2025年に世界遺産委員会にはかけられない形の中間報告、2024年に提案されていた本報告書は2029年まで提出が引き延ばされる運びとなりました。
このように、国政に関わってくる重要な場面で世界遺産への取り組みが対立党や世論に大きく取り上げられているケースでは、交渉の余地は非常に狭くなる件が多いと感じています。
しかし委員会の本会議の場で、バングラデシュの主張を支持する委員国の議論だけでの採択を避け、委員国による決議案の修正案を検討するグループ作業に持ち込んだことで、他の委員国への説明やテクニカルな議論も行うことができました。事務局とIUCNとしてここだけは譲れないという点だけは残されることになったのが、せめてもの救いです。
この数年の間に、締約国がどのようにスンダルバンを巡る環境を世界遺産として保持してくれるのか、非常に気になるところです。