郷土史のインフラ

盛岡で出合った5人の高校生(撮影協力:caffe bar PICO)。

人口29万5166人。岩手県の県庁所在地、盛岡の悪口というものをあまり聞かない。旨い食い物屋が多い。チェーン店ではない地元の喫茶店が多い。いい地元の本屋がある。街がコンパクトで歩いていて楽しい。人の気質が優しい。地縁がないのに東京から移り住む人がけっこういる……。こういった話をよく聞く街だ。郊外に目を向ければ、巨大なイオンが2つもできていたりと、よくあるバイパス沿いの光景がこの地でも生じているとわかるのだが、「この町には何もない」と地元の高校生に自嘲される東北の他の地や、「東北の中では大都会だけど、東京から来た店があるだけ」と見抜かれている仙台などと比べれば、盛岡の評判は良い。そして、盛岡に暮らすひとから、この街を自嘲するようなもの言いを聞いた記憶がない。

今回盛岡を訪れてみてわかったことは、高校生たちのあいだで郷土史が丁寧に学ばれているということだ。「TOMODACHIサマー2012 ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム」に参加した5人の高校生は、つぎつぎに話してくれた。

「小学校の時に、郷土学習でいろんなところに行くんです」

「石川啄木とか。目の前が岩手公園だったので、それでいつも歩いて行くみたいな」

盛岡市の中心にある岩手公園(盛岡城跡公園)には、啄木の「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」の歌碑がある。啄木の故郷、盛岡市郊外の渋民(しぶたみ)には石川啄木記念館がある。

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盛岡市の位置。

「中学生のとき、学校のすぐ近くに先人記念館があって、そこで新渡戸稲造とか、米内光政とか、そういうのメッチャやりました」

JR盛岡駅南西郊外にある盛岡市先人記念館は1987(昭和62)年開館。盛岡市生まれの3人——国際連盟初代事務次長でユネスコの創設者でもある新渡戸稲造(にとべ・いなぞう。1862[文久2]年生まれ)。最後の海軍大臣で、1940(昭和15)年には首相も務めた米内光政(よない・みつまさ。1880[明治13]年生まれ)。アイヌ語研究家の金田一京助(きんだいち・きょうすけ。1882[明治15]年生まれ)をはじめとする明治以降の盛岡ゆかりの偉人130人の資料が展示されている。

集まってくれた5人の中には、沿岸の大槌町出身者もいた。大槌でも郷土学習をやりますか? たとえば三閉伊(さんへい)一揆とか。

「はい、やりました」

前述の人名はすべて『広辞苑』に載っているが、幕末の1847(弘化4)年および1853(嘉永6)年に大槌一帯で勃発、南部藩主を交代させるにまで至った1万人規模の"市民運動"のことは載っていない。それを大槌では中学生で学ぶという。丁寧な郷土学習は、盛岡市というよりも岩手県の気風なのかもしれない。5人の中には盛岡の南・花巻から来た高校生もいた。

「花巻にも宮沢賢治記念館とか、宮沢賢治イーハトーブ館とかあります」

前者は花巻市の施設、後者は賢治作品の愛好者・研究者の集まり「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の施設。賢治のハコモノが2つも要るだろうかとも思うのだが、宮城県にも石ノ森萬画館(石巻市)と石ノ森章太郎ふるさと記念館(登米市)という例があるので、花巻だけが愛情過多というわけではないだろう。ただ、盛岡で会った高校生たちの口から、賢治、啄木、新渡戸、米内という名を聞くと、この地が近代日本史に関わる多くのひとを輩出してきたところなのだと実感する。同じ問い——郷土の偉人は誰ですかという問いを、福島や宮城の高校生に向けたとき、これほど潤沢な答えが返ってくるだろうか。

岩手の、いや、盛岡ならではの話を取材中に聞いた。男子生徒がひとりもいない共学校に通う高校生の話だ。