原爆投下を実現したトルーマンの誤算

こうしてトルーマンとバーンズは、日本が降伏する前に原爆を2発投下することができた。世界はこの新兵器の登場に震撼した。

Atomic Cloud Rises Over Nagasaki, Japan
Atomic Cloud Rises Over Nagasaki, Japan(写真=チャールズ・レヴィ/National Archives at College Park/PD US DOE/Wikimedia Commons

ところが、トルーマンの計算に狂いが生じた。ソ連が8月9日に日本侵略を始めたのだ。トルーマンが7月18日にスターリンと会談したときは、ソ連は8月15日に日本と戦端を開くと言っていた。トルーマンの心づもりとしては、2発の原爆を投下すれば、遅くとも8月14日までには日本は無条件降伏するはずだった。そして、スターリンは、もう間に合わないとして日本侵略を諦めると思われていた。

しかし、スターリンは、8月6日には落ち込んで対日侵略を諦めたものの、翌日に日本がまだ降伏していないと知ると、気をとりなおし、アレクサンドル・ヴァシレフスキー極東軍総司令官に「夏の嵐作戦」の開始を命じた。ソ連極東軍は、予定を切り上げ、無理に無理を重ねて、8月9日に侵略を開始した。この辺のことは、長谷川毅がソ連側の資料に基づいて書いた名著『暗闘』(2006年、中央公論新社)に詳しい。

日本は降伏せず、ソ連は支配地域を拡大

「ヤルタ極東密約」によれば、ソ連が日本と戦うならば、南樺太、千島列島、満州の東清鉄道がソ連のものになるはずだった。その際は、ルーズヴェルトの死によって副大統領から昇格して間もない、外交経験がほとんどないトルーマンが、まったく不案内な東アジアの問題で、スターリンとむずかしい交渉をしなければならなかった。

トルーマンは、原爆を投下すれば、ソ連が軍事行動を起こす前に日本が降伏し、このような面倒は避けられると思った。彼ならずともそう思うだろう。しかし、予想とは裏腹に、原爆投下は、ソ連の日本侵略の引き金となった。

計算違いはもう一つあった。広島に投下したらすぐにでも無条件降伏を呑むはずの日本がなかなかそうしなかった。あくまでも国体護持にこだわり、これが守られなければ降伏しないと言い張った。8月10日にご聖断を下したときも昭和天皇は無条件ではなく、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」と無条件降伏ではなく、条件付き回答をしてきた。

トルーマンは、燎原の火のごとくソ連の支配地域が広がっていくので、もう待てなかった。バーンズは8月12日に「占領とともに天皇の国家統治の大権は連合国総司令官の下に置かれる」と返すしかなかった。きわめて曖昧だが、少なくとも無条件降伏の強要には読めない。事実、日本軍の武装解除と降伏を天皇が保証せよと付け加えていた。何年かかるかわからないこのプロセスのあいだ、天皇はその地位にあるということだ。