「ざわざわする」能力の育成をやめてしまった

そう考えたら、「かくれんぼ」もそうですね。何も見えないし、何も聴こえないのだけれど、「そこ」に何かが隠れているということがわかる。そういう気配がする。「邪気」とか「殺気」とかを感じ取れる能力は、体力的に弱い個体が生き延びる上では死活的に重要です。ですから、そういう感受性を人類は太古からさまざまな仕方で育ててきたのだと思います。ごく最近まで。ハンカチ落としやかくれんぼは僕の子ども時代まで、1950年代までは子どもたちにとって最も親しみ深い遊びでしたから。

でも、ある時期から、子どもたちが遊びを通じて「危険なものの接近を感じると、ざわざわする」能力を身につけるということを学校でも家庭でも配慮しないようになりました。むろん、第一の理由はそれだけ社会から危険なものが少なくなったということです。それ自体は慶賀すべきことですけれども、だからと言って、この能力を育てる訓練を完全に止めてしまってよいのでしょうか。

現代社会においても「呪いの言葉」は人の命を奪う

文明社会にもさまざまな「異族」や「野獣」は姿かたちを変えて蟠踞ばんきょしています。

内田樹『勇気論』(光文社)
内田樹『勇気論』(光文社)

例えば、SNSでの心ない書き込みのせいで自殺する人はいまも少なくありません。これは現代社会においても、「呪いの言葉」に人の命を奪うだけの力があることを示しています。「呪殺」なんて前近代のもので、もうそんな非科学的なものはなくなったと思っている人が多いかも知れませんが、そんなことはありませんよ。いまでも呪いは十分に有効です。だから、呪いの言葉を他人に投げつける人は多くが匿名を選びます。呪いが相手にうまく届かないと、それは発信者に戻ってくることを知っているからです。return to senderです。それを避けるために発信者名を明らかにしない。

ですから、僕はSNSの荒野を歩く時には、太古と同じように、「こっちへ行くと、何か悪いことが起こりそうな気がする」と感じたら、足を止めて、そっと方向転換するようにしています。ディスプレイに並ぶ文字列を遠くから一瞥しただけで「これは読んではいけない」ということがわかる。「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」というものがこの世には存在します。存在するどころか、巷はそういうテクストにあふれています。そういうものにはできるだけ近づかない方がよい。それを遠くから感知してアラートが鳴るような設定にしておく。僕はそうしています。

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