「こんなヤツ、さすがにもういないだろう」と思ってやって来ると、僧堂などで私を見て、「まだいる!」と驚愕する破目になったそうである。
この一件のトラウマが、私の「メディア原体験」であり、今に至るまで、「黙っていると何をされるかわからん」という警戒感と、一貫した「消極姿勢」の元になっているのだ。
テレビの語る「言葉の問題」
以来、数度、テレビに出たが、トラウマとは別に、一つ強く感じたことがある。それは、テレビで語る言葉の問題である。
テレビ番組は長くて1時間、特番でも2時間、どんなに深刻な問題でも、いかに複雑なテーマでも、その時間内にケリをつけなければならない。すると、言葉は、考えてから出すのでは遅くなりやすい。条件反射的に言葉が出ないと、往々にして間に合わないし、それが出来る者が重宝される。
ということは、テレビの中の言葉は、声が大きく、刺激的な言い回しほど、目立つし「売れる」だろう。それは往々にして、「思考のショートカット」になりかねない。私はテレビの言葉に馴れることの危険を感じたのである。
おそらく、ネット社会の拡大と深化は、この言葉の傾向を加速させるだろう。より刺激的で強い言葉が吸引力を持ち、その言葉もAIが用意することになりかねない。
自分で考える「面倒」を避け、アルゴリズムが導出した数個の選択肢を、「自分の考え」として選択するという、考えの省力化と効率化が奨励されるかもしれない。
それで何が悪い、という人もいるだろうが、私はそれに共感できない。おそらく、それは自分の言葉に対するプライドゆえであろう。そんなプライドに今後も意味があるかどうかは、定かではないが。