「カセギスルコ」と呼ばれても「笠置に追いつく貧乏なし」
しかし、当時の「大スター」笠置の暮らしぶりについては、タナケンのモデル・エノケン(榎本健一)と「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った喜劇役者「ロッパ」こと古川ロッパ(古川緑波とも)が、『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社版)の中で次のように記している。
「清川(虹子)は世わたりのうまい奴で、シボレーの一九五〇年を買って乗りまはし、京都へも持って行くといふ一流ぶり。全く俺は金まうけの下手さに自ら嫌になる。清川は自動車、笠置は家を建てた。笠置に追ひつく貧乏なしと、洒落はすぐ出るが、つくづく俺は金が無い。二人の稼ぎ女王と話してて、全く悲観する」
『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社)
実際、笠置は一時「カセギスルコ」などと言われるほどの売れっ子だったそうで、主演映画『生き残った弁天様』の撮影時には、共演者のロッパや森繁久彌、星十郎らに「私の車で銀座へ何卒」と言ったにもかかわらず、世田谷の自宅に案内したという。「ここで一休みして、まァ家を見て下さい」と笠置に言われたときのことを、ロッパは1951年1月25日の日記でこう綴っている。
世田谷に建てたハリウッド風の一軒家でパーティーも開いた
「なるほど立派な家、門から庭、玄関とハリウッド風。得意で、見てくれ見てくれと、方々の部屋を案内する。わずか三、四十万円の離れ一つ、それも借金だらけで漸っとこ建てた俺なんてものは、何をしとる、全くいやになる」
『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社)
笠置は1951年6月、ヱイ子の誕生日に招待客200人余りの盛大なガーデンパーティーを開き、以後数年にわたって毎年パーティーを開いており、その豪華さについてもロッパは日記で触れている。
今では考えられないことだが、先述の『映画ファン』の例からもわかるように、かつては芸能人の家が、外観も表札もはっきりわかる状態で雑誌などのメディアで写真付きで紹介され、その家族の顔や豊かな暮らしぶりなども大っぴらにメディアで公開されていた。