「自分の将来は、母の介護ありきで考えなければならないのだと思うと、絶望的な気持ちになりました。親子の縁を切ってもいいと思うほど母のことが大嫌いだったので、『母の面倒なんて見たくない!』と言って逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。兄はもう、母からの束縛にうんざりし、家を出て関東の大学に進学していたので、兄だけ家を出る許可を出した両親を心底恨みました」
当時はまだ、田中さんには学校があり、母親は細かい作業以外は自分でできていたため、あくまでも母親の主介護者は父親で、田中さんは、母親の調子が悪いときや父親の仕事が忙しいときに家事をしたり、母親をトイレへ連れて行くなどのサポートに回った。
しかし、母親のことが大嫌いだった田中さんは、母親の待つ家に足が向かず、わざと学校の図書館などで時間をつぶし、帰宅時間を遅くした。すると母親は「帰ってくるのが遅い!」と言って怒り狂い、体調が悪化。精神的に不安定になると、これみよがしに自殺未遂を繰り返すため、目が離せない時期もあった。
「いずれも未遂ですが、電気コードを首にぐるぐる巻きにして首を絞めようとしたり、ハサミを喉に突きつけようとするんです。症状がうつっぽくなってくると、私の姿をなめるようにジロジロ見て、延々と私の外見や性格の欠点をあげつらい、気に入らないことがあると、『あんたのせいで私はパーキンソン病になったんだ!』などと言いました。介護をすることよりも、母に罵られ続けることのほうがよっぽど辛いと思いました」
ありもしないことを父親に告げ口
母親と口論になると、必ずと言っていいほど、『あんたのせいで私は病気になった!』『あんたなんか産む予定じゃなかった!』などと暴言を吐いては、何日も無視し、食事を用意してもらえない。
古い考え方をする父親だが、もともと父親と田中さんとの仲は悪くなかった。しかし、仕事が忙しくて家にあまりいなかった父親は、田中さんが幼い頃から、母親が田中さんを執拗に罵倒する場面に出くわしたことがなかった。そのうえ母親が、「あの子が私に暴言を吐いて来る!」と、ありもしないことを父親に告げ口するため、田中さんと母親が口論になると父親は、「パーキンソン病と診断された母親=弱い者」という思い込みから、無条件で母親を擁護し、母親と一緒になって田中さんを責めるようになった。
「私が少しでも母に口答えをしたり反抗的な態度を取ると、父はいつも『お母さんに謝りなさい! お前が悪い』『病気が悪化するからお母さんに心配をかけるなよ!』『親をそんな風に言うもんじゃない!』と怒るだけで、私がどんなに弁解しても、全く聞く耳を持ってくれませんでした。私が母に対してひどいことを言って、母を苦しめていると決めつけていたのです」
田中さんはいつしか、父親に理解してもらおうと努力するのをやめてしまった。
〈夫に浮気と借金が発覚…実家の母は「お前がわがままだったから」二児を育てる女性を苦しめた“味方ゼロ”の泥沼離婚劇〉へ続く