不採用=社会から求められていないということではない
「慎重に検討した結果、残念ながら、採用を見送らせていただくことになりました」の一文が真っ先に飛び込んでくるお祈りメール。就活をはじめる前は先輩が「祈られた」と口にする姿を目にし、何のことやらと素知らぬ顔をしていたが、いざ自分が祈られるようになると、その威力を痛いほどに感じる。
実際に、1日に3件のお祈りメールを受けたときにはかなりズシリと響くものがあった。選考内容により合否が決められると頭では理解していても、「とにかく自分には運がないな」「悪いことは続くというが、それは本当だったのだ」とつぶやきながら、やり場のない悶々とした気持ちをなんとか鎮めようとしていた。
あまりにもお祈りメールが続くと、自分は社会から必要とされていない人間なのではないかという思考に陥ってしまうこともある。社会に貢献するために働きたい。それを実現するために自分の強みやビジョンを語り、企業から太鼓判を押されようと試行錯誤を繰り返す。それなのに、「ダメでした」という連絡が続けば、自分の生き方や人生を否定されているように感じる人もいるだろう。
時間をかけて打ち込んできたことや、本気で挑戦したこと、成果を上げたことなど人に誇れるようなカードを召喚した上でノーと言われてしまえば、「いままでやってきたことは一体全体何だったのだろう」という気持ちになる。
しかし、お祈りメールが原因で自身を否定し、追い込んでしまうのは間違いだ。
企業の数は途方もないほどある。人手不足が叫ばれている業界も多い。働き方や業務内容、業界内での順位など絞り込みをかければ該当する企業数は確かに減少するが、それでもなおエントリー可能な企業は有り余るほどにある。
それに、自分と全く同じ人間はいないように、自分と完璧にマッチする企業は存在しないと思っている。就活は、働きに求める軸や自身の価値観に近い企業を探す旅であって、パズルのようにぴったりとはまる企業を見つける宝探しをするわけではない。
だからこそ、お祈りメールが来ても、「たまたまこの企業に自分は合わなかっただけ」という程度に受け取り、スルーしていいはずだ。