岡場所で行われていたこと
吉原の投げ込み寺として有名な浄閑寺には、安政の大地震の時に亡くなった遊女の過去帳が残されている。また、過去帳の死者数から東京大学地震研究所が、当時の被害状況や吉原の人口を割り出す試みを行ったということを浄閑寺の住職から聞いた。細見から人数を割り出すことも可能だが、細見に掲載されない切見世の下級遊女もいるのでその数ははっきりしないといっていいであろう。
もちろん、時代によっても異なっているが、あくまで概算すれば、120万ほどの人口の1パーセント、少なくとも1万人以上の売春婦が江戸にいた計算になるという岡田の指摘はあながち的を外れた数ではない。
岡場所の多くは切見世とよばれる長屋の一間で、小半時(1時の4分の1、約30分)百文(約1000円)時間売りの形態(チョンの間)であったが、もちろんそれがすべてではない。
岡場所を一概に低い位置と見下すことは当たっていない。吉原顔負けの部屋持ちの遊女もいた、立派な2階家の店構えもあったのだ。
芸能人ほど率先して向かった
『役者女房評判記』を精査した武井協三氏は、吉原から深川へと役者の付き合いも親密度を変えたといい、
『役者女房評判記』に登場する女性に、吉原より深川出身の者が多いことは、こういった江戸の遊里の盛衰を背景にしているのである。『役者女房評判記』が書かれた宝暦9年といえば、ようやく深川に客の流れが、大きく向きはじめた頃であろう。
流行の先端を走る芸能人が新しい遊び場に率先して通ったであろうことは、想像に難くない。そしてそのことが、深川の隆盛にまた拍車をかけたのではないだろうか。
と指摘する。
江戸市民に欠かせない存在
岡場所は、その名称が定まる宝暦期(1751〜63)からその位置を定め、安永期(1772〜80)・天明期(1781〜88)で全盛期を迎え、松平定信の寛政の改革で各地の岡場所が廃され一頓挫の状況になるが、それは一時的であり、文化期(1804〜17)・文政期(1818〜29)になりまた流行することになった。
しかし、天保12年(1841)の水野忠邦による改革で、各地の岡場所はほとんど廃絶湮滅状態になる。
しかし、上層の遊里深川の一部は芸妓を中心とした町に変わりながら柳橋で流れを絶やすことなく続き、下層の夜鷹はしぶとくたくましく客を集め、幕末を迎えることになる。