岡場所の女性は「自由」だった
『深川新話』(安永8年刊1779)には、「岡場所の公界しらず」といった表現がある。岡場所の女性は世間の習慣を知らないというのだが、ここには〈公〉の世界を知らないという意味も含み、公的世界が岡場所を見下しているニュアンスがある。
岡場所の遊女は、客から見ると吉原育ちの遊女のように、〈公界〉のしきたりをわきまえていない、つまり「世間知らず」などと呼ばれているのである。
『醒睡笑』巻二(元和9年序1623)には老父が息子に、「汝がやうなる公界知らずには、ちと仕付けを教へん」などといった語例もある。ここは世間知らずといった解釈で間違いはないのであるが、あらたまった「公的」な場所といったニュアンスも感じられる。
同じく、『醒睡笑』巻一には、舅が婿に語る言葉で、「今までは公界むきのよし、この後は随をいだいてあそばれ候へ」とある。この場合は、かたぐるしい生活からもっと気まま「気随に」生活してよいという語例だ。
公界の反意は、気まま、勝手にということにもなるようだ。気まま、勝手は〈自由〉と言い換えられるかもしれない。もちろん、江戸時代に人権に対する思想的意識はない。明治以降の自由とはまったく異なった用語であることはいうまでもない。
しかし〈自由〉の語は、江戸時代から使われていた言葉である。『色道大鏡』巻十三(貞享5年以降成1688)では、下関の遊女町稲荷町の動向に触れ、「公儀前傾城の数七十人とさだむ」として、天神らの遊女の値段付けを記した後で「寛文年中までは、傾城の町へ出る事自由にして、問屋方にも宿せり。延宝より己来、是を制し給ひて、門外へ出さず」と記している。
明暦3年(1657)における新吉原の成立が地方遊里にまでおよんだ一例であるが、ここでは「公儀」の制約によって彼女たちの外出の「自由」が失われたということに着目しておきたい。
江戸時代に娼婦はどれだけいたのか
遊里研究に詳しい岡田甫が、「江戸娼婦雑話」と題するエッセイを書いている。
「江戸時代に、売笑婦はどのくらいいただろうか――と質問されたことがある」と書き出し、吉原の3000を筆頭に、岡場所約60カ所で約3000人、夜鷹など4000人と概算して、「それらを概算すると、大よそ一万前後の娼婦が江戸にいたかと思われる」と記し、夜鷹4000人は『当世武野俗談』(宝暦六年自序一七五六)の馬場文耕のあげた数で少し大げさかと思われるがもちろん実態がわかろうはずはない、また岡場所も約60カ所としているが、その数も本当のところはわからない、最盛期には100カ所を超えたというからもっと多いのではないか、一つの岡場所に、5人計算であるが、これも品川、新宿などの宿場や大手の深川、本所、浅草周辺を考えても低い見積もりであると述べている。