運転手は無免許、無保険、無車検で、飲酒ひき逃げ

そんな中、病院に詰めていた警察官から、ひき逃げ犯らしき男が確保されたという情報が入った。はっきりしたことはまだ分からないが、無免許のブラジル人で、保険にも一切入っていないという。

「このときは、生死をさまよう息子のことで頭がいっぱいで、何も考えることができませんでした。しかし、加害者の人物像を聞き、とんでもない相手と、とんでもないことになってしまった、これからどうなるのか……と、不安で押しつぶされそうでした」

それから数時間後、午前9時すぎ、貴仁さんは息を引き取った。

あまりに大きすぎるショックと悲しみは、人の感覚を麻痺させてしまうのだろうか。眞野さんは「まるで、夢の中にいるようだった」と振り返る。

その後はただ淡々と、通夜、葬儀の準備に追われるだけだった。

貴仁さんは、平成4年生まれ。三人兄弟の長男で、事故の2週間前に19歳の誕生日を迎えたばかりの大学1年生だった。

眞野貴仁さん(当時19歳)。通学に利用していた道で乗用車に跳ねられ死亡した。
写真=遺族提供
眞野貴仁さん(当時19歳)。通学に利用していた道で乗用車に跳ねられ死亡した。

テキーラをショットグラスで6杯、生ビールを中ジョッキ3杯

大学生活を謳歌おうかしていた貴仁さんの命を一瞬にして奪ったのは、ブラジル国籍の男(当時47)だった。サンパウロ州の高校を卒業後、農業などを経て、20歳のときに農機具を作る仕事に従事。翌年、日系3世の女性と結婚し、32歳のとき友人のつてを頼って日本に入国した。

愛知県の派遣会社に登録したこの男は、コンピューターの部品会社などに勤めていたが、その後、自動車部品を作る会社に職場を移す。しかし、当時の不況の波は自動車関連の下請け企業に容赦なく押し寄せ、いわゆる「派遣切り」に。その後、約1年間は無職だったが、事故の2週間前、ようやくパチンコ台の部品を作る会社に派遣社員として雇用された。

この会社には送迎用のバスがあり、通勤にマイカーを使う必要はなかったが、男の無免許運転は常習化していた。数年前に別居してブラジルに戻った妻名義の普通乗用車を3年ほど前から日常の足とし、さらに、事故前年の6月には車検も自賠責も切れていたことを知りながら、それを更新する経済力がなかったという理由で、そのまま乗り続けていたのだ。そして、結果的にこの車が「凶器」となった。

2011年10月29日(土)、その夜、友人からハロウィンパーティーに誘われたこの男は、車を運転し名古屋市中区のディスコに出かけた。報道によると、この店で「友人数名と共にテキーラをショットグラスで6杯、生ビールを中ジョッキ3杯くらい飲んだ」と供述したという。