香淳皇后が選ばれた決め手は「手の荒れ」

貞明皇后は、昭和天皇をはじめ4人の親王をお産みになり、よく教育された。学習院の授業参観などしてお妃候補の品定めをし、次男の秩父宮などの妃には才気煥発かんぱつな女性を選ばれたが、皇太子の昭和天皇には宮家出身でおっとりした久邇宮良子ながこ女王(香淳皇后)を選ばれた。冬に水掃除のために手が荒れているのを見て気に入ったというように、道徳性とか人柄の円満さを重視された。

母系の島津家に由来する色弱(現代ではほとんど問題にならないが、当時は軍人としての適性などが心配された)を心配して、山縣有朋らが疑問を呈し、一時は辞退を促す声もあったが、昭和天皇の意向もあり予定通りとなった。

昭和天皇との夫婦仲は極めて良く、7人の子をなされ1人を除いて成長した。戦中・戦後の苦しい時期には質素な生活によく耐えられ、皇后の笑顔は国民を安心させた。

「強い女将さん」よりも「内助の功」タイプ

長女で両陛下がとくに頼りにされていた東久邇成子さんに癌で先立たれたのにはショックを受けられ、衰弱が目立つようになった。医療体制の不備もあって腰椎骨折の治療が十分にできず、昭和天皇の大喪の礼にも欠席されるほどだった。

歴代の皇后中、最長の在位(62年と14日間)を記録され、「香淳皇后」と追号された。

貞明皇后は、自分と同じように皇室の強い女将さん的な役割もできるように鍛えようとされたが、おっとりした香淳皇后には不向きだったようだ。ただ、家父長的な君主である昭和天皇のもとでは、皇后が主導権を取る必要はあまりなく、内助の功を果たすことで十分だったといえる。

明仁親王を抱く香淳皇后
明仁親王を抱く香淳皇后(写真=光文社「昭和の母皇太后さま」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

現上皇陛下のお妃選びにあっては、戦後の混乱のなかで、在来型の宮家や五摂家やそれに準じる家から適当な候補を求めることが難しくなっていた。

そんな中で、一般華族とか学習院卒業生に候補が広げられたが難航し、財界人の家系でカトリックの学校出身の正田美智子さんに白羽の矢が立った。皇太子殿下(当時)とはテニスを通じて面識があり、殿下は好感を持っておられたのだ。

それまでは民間から皇后が選ばれたことはなかったこともあり、はじめはお妃候補とは考えられなかったようだが、お妃選びの責任者だった小泉信三氏が、思い切って根回しをはじめた。