女性の地位と日本のイメージを向上させた
女子教育にも熱心で、華族女学校(現・学習院女子高等科)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、津田梅子らの留学などに尽力された。
昭憲皇后が守旧派的な女性だったら、日本の女性の地位はだいぶ遅れたままになっただろうし、日本の国際的なイメージも悪くなったはずだ。日本赤十字社に援助をされ、アメリカで赤十字国際会議が開かれたときにも多大な寄付をされた。
文明開化に前向きで、宮中の服装を洋装に改め、写真が嫌いだった明治天皇と違って、多くの肖像写真を残された。その一方、歌人としても高く評価されている。
お子さまは望みがたいという判断が早いうちに下り、側室が置かれた。大正天皇の生母は側室の柳原愛子さんだ。
1912年に明治天皇が崩御されて皇太后となった。1914年に崩御されたとき、皇太后も死後は皇后と呼ばれるべきところを、事務的なミスが原因で昭憲皇太后と呼ばれている。
農家で育ち、やんちゃだった貞明皇后
大正天皇の病弱を心配された明治天皇らは、早くしっかりした妃と結婚させたほうがよいと考えた。そこで、学習院教授だった下田歌子(林真理子の小説『ミカドの淑女』のモデル)が、容姿や知性などいずれをとっても申し分ないと、伏見宮禎子女王を推薦した。
しかし、宮廷医ベルツが胸部に疾患があるとし、ピンチヒッターとして白羽の矢が立ったのが九条節子さんである。両親は左大臣・九条道孝と側室だった家臣の娘で、高円寺の農家に里子に出されてたくましく元気に育った。
貴族的な顔立ちではなく、やんちゃだったので当初はお妃候補でなかったが、健康と多産系が重視されて浮上した。
大正天皇の病状が悪化する中でも、貞明皇后の献身は見事だったし、天皇が心身の状態を回復され、帝位に就くことができたのは皇后の功績だ。
ただ、保守的な価値観で、皇太子時代の昭和天皇の外遊に執拗に反対されたことは政府を困らせた。また、大正天皇のご病気は神に十分に祈らなかったためとして、昭和天皇に神事に取り組めと強く意見されたことは賛否があるだろう。また、周囲に怪しげな宗教の信者がいて影響が及んだこともあった。