日常の延長線上にある非日常の象徴
「阪急で行きましょう。」
阪急電鉄が車内広告などで使っているキャッチコピーである。
そのポスターでは、宝塚歌劇団花組107期の娘役・七彩はづきさんがオレンジ色の衣装に身を包み、紅葉に囲まれて佇んでいる(*1)。
「錦織りなす、景色のなかへ。」という、秋の宣伝文句も相まって、いかにも優雅で、ゆったりとした雰囲気を醸し出している。
関西在住者や、かつて住んでいた人たちにとって、阪急とは、日常の延長線上にある非日常の象徴である。
1910年の開業当時から統一されている「マルーンカラー(茶色系統)」や、ゆったりとした座席が、通勤や通学だけではなく、ちょっとした観光へと誘うからである。
近畿地方に縁がない、たとえば関東圏の人たちにとっては、東急と似たものを感じるかもしれない。
政治学者の原武史氏は、「東急と阪急はしばしば、よく似た私鉄であるといわれる」として、次のように述べている。
この「異なっている」ところが、関西の外には伝わりにくい。
なかでも最も難しいのが、阪急と宝塚歌劇団の関係なのではないか。
「乗客がいなければ、乗客をつくりだせばよい」
阪急の前身・箕面有馬電気鉄道は、1910年に開業している。創業者の小林一三(1873~1957)は、山梨県生まれで慶應義塾を卒業しており、大阪とのつながりができたのは、三井銀行に就職し、大阪支店に勤めるようになってからだった。
阪急が先に述べたイメージを作り出せたのは、小林が、関西の外から来た人間だったからである。
原氏が注目している通り、小林は「乗客がいなければ、乗客をつくりだせばよい(*3)」との発想に基づいて、「畠や田圃しかないような田舎(*4)」だった宝塚までの沿線に、郊外型の住宅を作り、通勤客を生み出していく。
こうした戦略に加えて、大阪梅田に向かう乗客だけではなく、宝塚を目的地とする客を作ろうとする。
そのために、大阪北部の箕面に1910年に動物園を、翌11年に宝塚に宝塚新温泉を、そして、現在の宝塚歌劇団の元になった宝塚唱歌隊を1913年7月に組織し、第1期生16人を採用するのである。