「このまま何があっても、スズ子をキヌに会わせんといてほしいねん。これから生きていく、ワテの知らんスズ子をキヌが知るんは、耐えられへん。性格悪いやろ。醜いやろ」

命の灯が消える寸前に、ありのままの胸の内を夫に打ち明け、自らを評して「性格悪いやろ。醜いやろ」というヒロインの母。なかなか斬新だ。

『ブギウギ』という朝ドラは、聖人君子がひとりも登場しない。人間の愚かさ、みっともなさ、可笑しさ、そして、だからこその愛おしさを、なるべくありのままの形で描こうとしている。

人間、表側に見えている一面だけが全てではない。第2話でツヤがスズ子に言って諭した「誰もが言われると心底辛いことが、ひとつやふたつはあるもんや」という言葉は、口にした瞬間、そのままツヤ自身の胸を突き刺していたことだろう。

ツヤが対峙し続けた「どす黒い感情」

明るくさっぱりしてバイタリティにあふれ、いつでも家族を大きな愛情で包み、「はな湯」というご近所コミュニティにとっての「お母ちゃん」でもあったツヤ。「芸は身を助けるし、人生楽しなる」「自分が『これや』って思うことで生きていくんがええ」と、スズ子が芸事を志すきっかけを与え、いつもスズ子に人生の道標を指し示してきたツヤ。そんなツヤが人知れず抱え、対峙し続けた「どす黒い感情」に、筆者は痺れてしまった。

「人は初めから親なのではない。子を持って育てるうちに、親にさせられるのだ」などという言葉をよく聞く。ツヤは、スズ子と六郎にとって「最高のお母ちゃん」だったが、それは時間をかけて身につけていった、ひとつのペルソナなのかもしれない。だからといって、「最高のお母ちゃん」が表向きの嘘で、「人知れず黒い感情を抱えたひとりの女性」が本当だというわけではない。どちらも本当で、いずれもツヤを形作る重要な要素だ。一握りのエゴを「母親の愛情」という真綿で包んだようなツヤの造形が面白く悲しく、そして愛おしい。お母ちゃんだって未熟で矛盾したひとりの人間なのだ。そして、この人間臭さが『ブギウギ』らしさともいえる。

朝ドラの「お母ちゃん」をふりかえる

朝ドラヒロインの母親像というと、いつも明るい笑顔と、どっしりとした愛情で包んでくれる「家族第一主義の良妻賢母」のイメージが強いかもしれない。しかし、「母だって人間なのだ、ひとりの女性なのだ」という題目は、朝ドラ62年史の中で意外と早くから描かれていた。そして、良妻賢母だけではない、母が持つ「毒」の部分も、いろんな朝ドラですでに描かれている。ここで少し、「“聖母”ではない朝ドラのお母ちゃん史」を振り返ってみたい。