関ヶ原に戦勝しても秀頼の臣下だった家康
「徳川幕府誕生」。NHK大河ドラマ『どうする家康』(11月19日放送)の第44回のタイトルである。第43回「関ケ原の戦い」(11月12日放送)で、石田三成(中村七之助)率いる西軍を、徳川家康(松本潤)率いる東軍が撃破。それは慶長5年(1600)9月15日のことで、同8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任じられている。
歴史の授業では、これをもって「幕府誕生」と教わったことと思う。だが、結論を先にいえば、たしかに「将軍」は誕生したけれど、それをもって「幕府」なるものが誕生したとは、まだいえない状況だった。
関ヶ原の戦いで家康側が圧勝したのはまちがいない。だが、それで全国が家康になびくほど、事は簡単には進まなかったのである。
家康は勝利ののち、9月27日に淀殿と豊臣秀頼に戦勝報告をしたが、あくまでも主君たる秀頼への、臣下たる家康からの報告だった。10月に大坂城中で、一時は家康らを反乱軍扱いした淀殿および秀頼と、和睦のための盃が交わされたが、このときも淀殿が飲み干した盃が家康に回り、上座に座っていたのは淀殿と秀頼だった。
また、家康は戦勝後、諸大名の加増や減封、改易、転封などをすべて仕切った。当時の日本の総石高は1850万石ほどといわれるが、そのうち416万石余りを没収し、有力5大名を減封して208万石余りを奪い、さらに豊臣蔵入地(各地に点在した豊臣家の直轄領)を削減して、およそ780万石を再分割した。
いわば国家の再編成に近いほど、空前絶後の領地の再配分を家康が行ったのだが、その際には必須であるはずの領地宛行の判物や朱印状を、家康はまったく発給していない。この判物や朱印状こそが封建的主従関係の基本になるのに、家康による領地の再配分は、口約束だけで行われた。この時点では家康は豊臣家の家臣にすぎず、それを発給するとすれば秀頼の名で出すしかない。だから出せなかったのである。