早稲田の学生だった穎右はシヅ子より9歳下だった
いかにも御曹司らしく、穎右は仕立ての良い高級な背広をお洒落に着こなしていた。
が、帽子を取って挨拶すると、その服装には似合わぬ坊主頭。早稲田大学の学生だという。当時の大学生は坊主頭が大半だった。6月に政府が学徒動員に関する決定をした関係で大学の夏休みが早まり、大阪に帰省する道中で名古屋に立ち寄り遊んでいたと言う。
あのときは気がつかなかったのだが、よくよく見れば、その顔には少年っぽいところが残っている。
29歳のシズ子とは9歳の年齢差があった。それに気がつくと、ときめいて浮かれていたことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
当時のカップルや夫婦は、女性が年上というのはかなり稀。10歳近い年の差ともなれば、恋愛関係が成立することはまずありえない。相手の年齢を知って冷静になれた。
緊張がほぐれ心に余裕ができてくると、
「じつは数日前にもお会いしてましてん。知ってまっか?」
いつもの調子で軽口が叩たたけるようになる。
「知ってますよ。辰巳さんの楽屋ですよね。会釈したんですけど、なんや知らん顔してはりましたね」
「あのときは、ボウとしてましてん」
「よう言わんわ」
「年の離れた姉と弟」として、つきあい始めたふたり
さすがに吉本興業の跡取り息子、漫才師のようにテンポ良く切り返してくる。大阪弁でボケたりツッこんだりしながら語るうち、距離はぐっと近くなり親近感が湧いてきた。楽しく会話ができている。波長があう。恋人同士にはなれずとも、年の離れた姉と弟。そんな感じで楽しくつきあえれば……と、期待も湧いてくる。シズ子は弟の八郎を溺愛していた。多少ブラザーコンプレックスの傾向はあったか?
穎右はこの翌日に、和歌山県の海辺に行って海釣りを楽しんでから実家に帰ると言う。シズ子も翌日には次の公演先である兵庫県の相生へ向かう予定だった。
「それなら、大阪あたりまでご一緒に行きましょか?」
そう言って誘ってみる。街ではデートしているカップルの姿などめったに見かけない時代。戦時下の非常時、そういった行動がひんしゅくを買うことは多々ある。もしもマスコミに見られでもしたら「スヰングの女王と吉本興業の御曹司が逢引」なんてスキャンダラスな記事を書かれる危険もあった。そうなったら目もあてられない。
仕事にも響く。それは分かっていた。また、相手もそのあたりのことは理解して、誘いに乗ってこないだろうと思っている。つまりは社交辞令、軽い冗談のつもりだった。
「いゃ、それは……」
やはり、困惑した顔で言葉を濁している。その態度を見て、可愛いと思う。この後、しばらく歓談して穎右は帰っていった。一人で楽屋に取り残されると名残惜しさが湧きあがってくる。