2023年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年2月11日)
世界最高峰のエベレスト登頂に幾度となく挑戦した栗城史多さんは、4回目の挑戦で両手の指を凍傷により9本失った。たいへんな大ケガだが、それでも多くの登山家は栗城さんの挑戦に冷ややかだった。なぜだったのか。河野啓さんの著書『デス・ゾーン』(集英社文庫)よりお届けしよう――。

難しいルートにあえて挑む不可解さ

ノーマルルートを逸れた末、カラスのせいで敗退したと発表した栗城さんは、翌年、このとき以上に「ありえない」行動に出る。

2012年秋。4回目のエベレスト挑戦。

栗城さんが選んだのは、ノーマルルートより格段に難度が高い西稜ルートだった。稜線りょうせんの上は常に強風に晒される。しかも西稜は長く険しい。

1963年にアメリカ隊が初めて足を踏み入れ、1979年にはユーゴスラビア隊が基部から忠実に稜線をたどって頂上を踏んだ。1981年、明治大学エベレスト登山隊が、大学の「創立100周年記念」として挑戦したのもこのルートだ。総力戦を展開し、山頂のすぐ下、標高差98メートルの地点まで肉薄した末に断念している。いずれの隊も大人数で装備も日数も要する「極地法」で挑んだ。

その難ルートに「単独無酸素」で臨むと言えば、ヒマラヤを知る人たちが怒り出すのも無理はない。

「登頂が目的でなくなっているのでは」

しかも栗城さんはこの年の6月、ヒマラヤのシシャパンマ(8027メートル・世界14位)でケガを負っていた。登頂を断念して下山中、クレバスに落ちて右手の親指を骨折し、胸の軟骨も損傷したのだ。

ヒマラヤ山脈
写真=iStock.com/miljko
※写真はイメージです

体調が万全ではなく、過去3度の挑戦で一度も8000メートルに届いたことがないのに、わざわざ登頂困難なルートを選んだ。これには、児玉毅さんも首を傾げたという。

「アラスカにスキーに行ったときは、まだまだやる気満々だったんですけど……。あれ? 登頂が目的ではなくなって来ているのかな……とは感じましたね」

そしてこの登山で、栗城さんは指に重度の凍傷を負うことになる。

このときベースキャンプ(BC)マネージャーを務めたのは女性だった。彼女の姿を見て私はハッとした。

面差しが栗城さんの婚約者だったAさんに似ていたからだ。

《AさんがなぜBCに?》
《ええと、これはいつの映像だっけ?》

私はリアルタイムではなくDVDや動画で振り返っているので、余計に頭の中が混乱したのだ。

彼女は東京の技術会社の音声スタッフで、栗城さんの最初の挑戦から同行していた。初回の収録映像はすべて見たので、私はスタッフに若い女性がいることには気づいていた。だが画面に大映しになることはなかったため、容姿までは気に留めていなかった。

無線での対応も的確で、聡明な女性と思われた。