「ハンディがある私を採用してくれたことに感謝していた。だから、仕事はベストを尽くしていた」。

仕事上の大きなミスもなければ、上司とぶつかったこともない。考え抜いたが、辞めざるをえない理由が見つけられない。放心状態の母親を中学2年の長男が気づかう。「何か、悪いことをしたの?」。下の、小学生の子ども2人は重いぜんそくなどで苦しむ。

風向きが変わったのは、伊藤さんが入社したときの社長が赤字の責任を取らされ、辞任に追い込まれたことだった。2カ月後、伊藤さんを含む20人近くの正社員が退職勧告を受けた。そのほとんどが「辞めさせられる理由がわからない」と漏らしている。しかも、会社から退職金が支給されることもなければ、再就職に向けての支援もない。

伊藤さんは、この顔ぶれを知って思い当たることがあった。「おとなしい性格の人とか、私のように負い目を持って生きている人が多いように思えた」。

会社が辞めさせる社員を選ぶ際に、抵抗することなく、すんなりと辞表を出すタイプがリストに挙がることはよくあることだ。特に正社員の場合は、退職強要や解雇を不服として争うと、会社のほうが不利になる可能性がある。穏便に済ますために辞表を出すように仕向ける。

会社は創業40年を超え、社員は正社員が90人ほど。リーマン・ショックの影響により、業績は急速に悪化。経費削減はもちろん、役員報酬や管理職らの賃金カットを行った。だが、回復のきざしは見えない。いつか人員削減があるだろうと噂はされていた。

20人ほどのうち半数近くの社員が辞表を書くことをしなかった。「期限」である5月末になると、社長は伊藤さんらを「整理解雇」とした。解雇の理由は、通知書に書かれていなかった。解雇には、懲戒・整理・普通と3種類あり、いずれも証拠や根拠が必要となる。特に整理解雇は、いくつもの要件を満たすことが求められる。