こう見ていくと、「ヤバい」の指示する範囲は広大であることが分かる。言い換えれば、「ヤバい」一語でさまざまな心情を言い表せる「ヤバい」は汎用性に優れた便利な表現である。
そして、2000年前後といえば、いまから20年以上前。当時、高校生や大学生であった男女がいまは小学生の親になっていてもおかしくはない。親が「ヤバい」を多用しているのであれば、わが子に「伝染」してしまうのは当たり前の話だ。
思考の深さは語彙の豊かさに比例する
もちろん、ことばは時代とともに変化するのは当然だし、だからこそ、わたしたちはかつて「古文」を学ばなければならなかったのである。
しかし、わが子が、いや親子で「ヤバい」を多用しているのであれば、それまで存在していたそのときどきの心情・心持ちの「近似値」に相当するだろう数多くのことばを知らずに過ごしてしまう危険性がある。これはかなりヤバい(否定的な意味)。
このことが「ヤバい」と思う理由は、冒頭に挙げたような「入試問題の読解で苦労」することだけではない。人間はことばで思考する生き物ゆえ、手持ちの語彙が豊富であればあるほど、複層的な回路を有して物事に処することができるようになり、その一方で手持ちの語彙が貧困であればあるほど、物事を表層的なレベルでしかとらえられなくなってしまう。
「ヤバい」同様に、「エグい」も「スゴい」もプラスの意味とマイナスの意味の双方を有する万能型の表現である。そういえば、最近よく耳にするのは「しんどい」の新用法である。それまでの「肉体的・精神的な負担を感じる様子」の意味に加えて、「推しのアイドルが尊すぎてしんどい」といったプラスに転義されるケースに出くわす。「しんどい」が万能型の心情表現へと変化しつつあるのだろう。
「ヤバい」「エグい」「スゴい」……そして、「しんどい」。語彙が豊富に備わっている大人が、あえてそれらを口にするのは構わないのだろうが、まだことばの基盤を構築する初期段階の子どもたちが、これらの表現を多用するのは注意したいところである。