突如として口の中を襲った不快感の正体
アルファ米にレトルトの麻婆丼をかけ、食欲を満たす。アルファ米はごはんを乾燥させたもので、水やお湯で戻して食べられる優れた保存食だ。デザートとして「甘栗むいちゃいました」もついていて、満足感が倍増する。
こういう過酷な野外調査では、食事だけが心安らぐひと時である。幸福のハードルは下がっているので、少しデザートがあるだけで大層幸せになれるのである。
日暮れ前の残光の中で食事を終えると、植生班は日中に採集した植物の整理をする。一方で、鳥類班はこれからもうひと仕事ある。夜間調査だ。
鳥類調査は私とハジメの二人で行う。ハジメは定点で、私は移動しながら調査を行う。この調査隊では安全のため単独行動を禁止しているので、それぞれバディとともに動く。私のバディはルート工作班のムナカタだ。ハジメは撮影班のヤナセとともに調査をする。
あたりはすっかり暗くなった。
調査道具をウエストポーチに入れ、デイパックを担ぐ。デイパックには水分補給のためのハイドレと携帯食が入っている。予定外に何かサンプルが手に入るかもしれないので、念のためチャック付きビニール袋も入れてある。
ヘッドランプを頭につけて立ち上がり、深呼吸をする。
「うっ、ぐぇっ! おぇ!」
突如として不快感が口の中を襲う。いや、口の中だけではない。胃や気管にも不快感が侵入する!
絶大な嘔吐感とともに、世界で一番大きな声で咳き込む。苦しみのあまり目尻から涙があふれてくる。
なんと、ここの空気はハエでできていたのだ!
顔の周りにまとわりつく数千のコバエ
山頂周辺には多くの鳥の死体が落ちていた。それぞれの死体が、その何百倍、何千倍の数のハエを培養していたのだ。今、私の頭にはヘッドランプが煌々と暗闇を照らしている。その明かりに無数のハエが集まってきている。
顔の周囲で数千のコバエが雲のようにまとわりつき、呼吸とともに口内に侵入してくる。重量割合で考えると、周辺の空気の約100%がハエである。
そもそも私は昆虫が苦手だ。その中でもハエは殿堂入りの上位ランカーである。おかげで気持ちが悪くて呼吸をしたくなくてしょうがないが、呼吸しないと死体の仲間入りをしてハエを増殖させる苗床になってしまう。
なんという皮肉! なんという悪夢!
しかし、冷静さを失えば奴らの思う壺だ。信じられるは我が身のみ、なんとか自力で解決するしかない。
問題は何か。最大の問題は私が昆虫を苦手なことだ。
ハエは昆虫である。しかし、この昆虫は何でできている? 彼らは海鳥を食べて成長したはずだ。つまり、彼らの体は海鳥でできているのだ。
そうすると、私の口に入ってきているのは、鳥なんじゃないのか?
なんだ、鳥か。ふむふむ、それならなんとか耐えられそうだ。鳥類学者だからな。
混乱状態から脱し、静かに呼吸を整える。口の中に入ってきたハエをぺッと吐き出す。入った数より出ていく数が3割くらい少ないような気がするが、まぁ鳥ならしょうがないな。
トリダカラダイジョウブ。トリダカラダイジョウブ。
おまじないを唱えながら、心のスイッチをオフにする。冷静さを取り戻した私は、いよいよ夜間調査を開始した。