「神はサンタクロースやユニコーンと同じ」
内容はタイトル通りである。神など古代人の妄想であり、現代人は宗教を捨てるべきだとドーキンスは主張する。
彼に言わせれば、キリスト教の神も、サンタクロースやユニコーンや妖精と同じく、とても実在するようには思われない。全能の神がこの世界の全てを司る。そんな途方もない主張をしたいなら、途方もないエビデンスを出せ。証明する責任は信じる者にある。証拠がないなら、神が実在するかのように話すのはやめるべきだし、神の言葉を記した聖書も人間が作った古文書だと認めるべきだというのである。
ドーキンスにすれば、そもそも「無神論者」という言葉が気に食わない。まともな大人であれば、サンタクロースもユニコーンも妖精も実在するとは思わない。だが、そうした人々をいちいち無サンタクロース論者、無ユニコーン論者、無妖精論者とは言わない。なぜ神についてだけ、無神論者という言葉があるのか。この言葉が、そもそも神の実在を前提にしているというのである。
「宗教は尊い」というイメージを守ってきたのは誰か
さらにドーキンスたちが批判するのが、本当は神を信じていないのに信じているかのように振る舞う人々だ。自分自身は神の存在を感じられない。だが、信仰を持つのは良いことであると信じ、神の実在を確信する人を尊敬する人々のことを、新無神論者のひとりである科学哲学者ダニエル・デネットは「信仰の信仰者」と呼ぶ(『解明される宗教 進化論的アプローチ』青土社/2010年)。彼らこそが実は宗教信者のマジョリティであり、彼らが「宗教は尊く、無神論者は危ない」というイメージを守ってきたというのである。
日本では、そもそも神の実在をめぐる論争が成立しにくい。「スサノオや阿弥陀が実在するエビデンスを出せ」と言っても、あまり反響はないだろう。「般若心経は非科学的だから読むのをやめるべきだ」と言っても「非科学的なのは当然だ」と受け流される(むしろ「般若心経と量子力学は同じ真理を語っていた」と言ったほうがインパクトがあるはずだ)。信仰を中心とした宗教文化とそうでない文化では、無神論者が持つ意味も大きく異なるのである。