実力伯仲のギリギリの勝負では「運」が勝敗を決することがある。伝説の雀鬼として名を馳せた桜井章一さんは「運が人を選ぶ」と断言し、「運には“必然の運”と“偶然の運”がある。必然の運がない人ほど、神頼みのようにして偶然の運を願うものだ」という――。(第3回/全5回)
※本稿は、桜井章一『雀鬼語録 桜井章一名言集』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
失敗の正体
人は自分のことを評価するとき、自分に都合のいいモノサシを使う。
ちょっとまずいことがあれば、この程度のことですんでよかった、むしろ大事に至らなくてラッキーだと考えたり、本番で結果が出なかったときには、調子が悪くてふだんの実力が発揮できなかっただけだと思ったりする。
いつもこのように考えていれば、余計なことを心配したり、へんに落ち込んだりすることもないかもしれない。
だが、常にそうであると成長や進歩はないだろう。なぜなら、失敗や不調というのは、たいがいその人の不手際や実力不足からそうなっているものなので、まずそのことを認めないことには本当の改善はないからだ。
不調こそ我が実力なり
私は「不調こそ我が実力なり」と思っている。
調子がいいときに「これが俺の実力だ」と思えば、調子の悪いときには「これは俺の本当の姿ではない」と現実を認めたくなくなるだろう。
しかし不調というのも紛れもなく、その人の実力の現れである。
すると実力をはかる物差しをどこに置けばいいかという話になる。私が麻雀の真剣勝負の世界にいたとき、一番調子の悪いときを基準としたのは、そのほうが伸び代が大きくなると考えたからだ。また驕ることで自滅するような愚かさも避けることができる。
好調を基準にしてはいけない。不調を基準にするからこそ、本当の意味での可能性が広がるのである。