モンゴル帝国に叩きのめされた西洋の騎士

チンギス・ハンは13世紀に騎馬民族同士の争いに終止符を打ち、民族を統一してモンゴル帝国を建設しました。モンゴル帝国は中国全土を支配しただけでなく、さらに遠方へと遠征を行い、北はモスクワ、南はベトナム、そして西はポーランドまで版図はんとを拡大。一時はドイツとフランスに攻め込み、これを領土にしかねない勢いで世界地図を塗り替えていきます。

セルゲイ・イワノフ画「バスカク」(1902)
セルゲイ・イワノフ画「バスカク」(1902)。ロシアがモンゴルの支配下にあった「タタールの軛(くびき)」時代、バスカクと呼ばれたモンゴルの徴税官がロシアの市場を訪れた様子が描かれている。(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

このときにロシアもウクライナもモンゴル帝国の支配下に置かれていたのです。資料を見ると、西洋の騎士たちが団結してモンゴル帝国に立ち向かうものの、完膚なきまでに叩きのめされていることがわかります。

240年間もの従属が生んだ歪み

一方で、モンゴル帝国の後裔こうえいの一国である元は、東側にも侵略を試み、海を渡って日本に上陸します。これが「元寇」の始まりです。日本は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)と二度にわたって元の侵略を受けますが、いずれも退けることに成功しています。元寇について教科書で学んで知っている人は多いのですが、西側はポーランドまで侵攻していたと知ると、モンゴル帝国の巨大さがイメージできます。

また、ヨーロッパがモンゴル帝国に蹴散らされていたのと比べて、日本がモンゴル帝国に勝利していたというのも見逃せないポイントです。「神風」といわれる大暴風が吹き荒れたなどの理由もありますが、結果的に見ると、当時の日本の軍事力が世界的に見て高い水準にあったことがわかります。

ロシアがモンゴル帝国に征服されてから独立を回復するまでの、約240年にわたる時代を「タタールのくびき」といいます。これはモンゴル帝国に税金や貢租こうそを納めさえすれば、ロシア人に一定の自立性を認める間接支配のことです。

乱暴にまとめていえば、もともと別の国、別の文化圏であり、別の宗教であった場所を、モンゴル帝国が一緒くたに統一してしまったことが、ある種の歪みを生んだのではないかと思います。