全国津々浦々に張り巡らされた慶應三田会ネットワーク

「3人寄れば三田会」といわれ、OB・OGがいる企業をはじめ、全世界の至るところで結成されている。ライバルの早稲田大学やその系列校でも、慶應出身の教職員たちが集まり「早稲田三田会」なる組織まであるほどだ。

慶應義塾大学 三田キャンパス
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この夏、甲子園に結集したのは地域三田会に区分される団体が中心になっている。三田会の中核組織「三田会連合会」に、近畿地域で登録されているのは16団体。それらをとりまとめる関西合同三田会の関係者は次のように話す。

「登録されている以外にも、関西には数え切れないほどの町内会レベルの三田会がある。これらの組織を通して、ひとつの発信や要請が数珠つなぎのように広がっていき、母校のために頑張ろうという機運が一気に生まれる。もっとも、今回の甲子園のような、これだけの結集は関西では今までなかった。三田会の底力を改めて思い知らされました」

三田会の出発点は慶應が創立してまもない時代までさかのぼる。

学校運営に行き詰まっていた創設者の福澤諭吉は全国各地で塾員たちを相手に講演会を開き、資金集めに奔走した。こうした塾員たちの集まりがそのまま地域三田会に発展していったのである。つまり、三田会の当初の目的は塾員の結束を図りながら、カネ集めにつなげることにあった。

そのパワーを見せつけたのが2008年に創立150年を迎え、学校側が寄付金を募った時だった。法人や個人からの寄付とは別に、各三田会はあっという間に計20億円を集めてみせたのである。

三田会連合会に所属する塾高同窓会(会員数5万3000人)もこの8月、「甲子園出場支援募金」を募った。「すぐに予想以上の額が集まったと聞いています」と話すのは前出の同OBの文系教授だ。

「塾高野球部には『日吉倶楽部』というOB会もあり、普段から資金的に困ることはなかったようです。そうしたバックアップ体制がしっかりできている点も他校に比べ、甲子園に臨むにあたって有利だったといえるかもしれません」

優勝まで行き着いた原動力は三田会の存在や、その結束力だけではない。もうひとつ大きかったのは2003年に始まった推薦入試制度だ。

優秀な選手が野球部に入ってくるようになり、導入からわずか2年後の05年にはセンバツ出場を果たした。43年ぶりの甲子園出場だった。「同制度の導入に対しては反対も少なくなかった」と明かすのは当時、慶應グループの最高意思決定機関「評議員会」で評議員を務めていた人物だ。

「スポーツ推薦のような仕組みを取り入れてしまったら、慶應の名をおとしめることになりはしないかと懸念する声が出てきたのです。したがって、もし入学させるのなら、学力をともなっていなければならない。他の生徒とは別のカリキュラムを組むような特別待遇もしてはならないといった条件をつけ、導入することになった」

その一方で、80代の元教授は「慶應にはこうした制度を進めるのに二の足を踏むトラウマがあった」と証言する。