たった数年で怒りを忘れてしまう

待機児童問題のように、声を上げる人が多く、関係するステークホルダーが見えやすければ、マスメディアも取り上げるし、世間も沸騰する。

かたや「学童落ちた」のように、自己責任で片付けられてしまいがちになれば、もはや、世の中の同情は寄せられず、社会の片隅に押し込められる。

この文章を書いている私は、二重の意味で罪深い。

「保育園落ちた」の当事者だったのに、たった数年でその怒りを忘れているだけではない。大学教員にとって少子化は、あくまでも18歳人口の減少、つまり、自分の給料に直結する受験者数や入学者数との兼ね合いにおいて(のみ)懸念するものだからである。

日本という国のかたちを考える上で最大級のテーマである少子化は、大学、とりわけ私立大学に勤める者にとっては、間近に迫った受験料収入の低下という近視眼的な側面で(だけ)捉えがちである。

本来ならば長期にわたる深い視点を提供すべきなのに、まずは目先の課題に囚われる。

この点でもまた、広い意味での子育てを他人事にしているのである。

「シルバーデモクラシー」から抜け出す道

さらに高齢化社会が、これに拍車をかける。

秋田県仙北市議会では、今年3月、80歳を迎えた市民に5000円を支給する「敬老祝い金」を廃止する市提案の条例案を否決した。

仙北市役所(写真=Ogaj1017/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
仙北市役所(写真=Ogaj1017/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

仙北市は廃止によって浮いた財源を子育て支援に回すとしていたものの、総額170万円の支給予算は、「人生の先輩への敬老の気持ちがあれば、努力して生み出せる金額だ」との主張により継続が決まった(*4)

シルバーデモクラシーの典型例と言えよう。

少子高齢化に伴い、有権者の中で多くを占める高齢者を優先する政策が通りやすくなる。仙北市で起きたのは氷山の一角に過ぎない。

国レベルで見れば、政府が出している予算(一般歳出)の半分以上(50.7%)を社会保障関係費が占める(*5)

もちろん、この社会保障関係費の全部が全部、高齢者のために使われているわけではないものの、この費用を少なくしない限り、子育ての予算を増やすのは難しいのではないか。