秀吉は光秀の不完全な「車懸りの行」を無効化した

やがて畿内へ入った秀吉は、周辺の城主たちを味方につけると、大軍でもって光秀の軍勢に接近した。

乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)
乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)

昨年、光秀の軍隊は新型の用兵を使うための「明智光秀家中軍法」を導入していた。だが、この戦法を謙信のように駆使するには入念な錬成が必要で、武田軍と北条軍もこれを模倣したものの、結局不完全な形でしか扱えておらず、謙信ほどの野戦上手にはなれなかった。

むろん光秀の軍隊も訓練が十分ではなかったはずだ。そこへ秀吉が、本来なら合戦を行なわない夕暮れどきであるにも拘らず、一気に攻勢を掛けてきた。その理由は降雨である。車懸りの性能を発揮するには、戦闘開始と同時に銃撃を仕掛ける必要があるのだが、雨の中ではこれがうまく機能しない。秀吉はここを衝いて、光秀の不完全な車懸りを無効化した。

手取川合戦で、隊列を整えた上杉軍が迫る恐怖を体感している秀吉は、光秀がこれと同じ用兵で挑むことを警戒して、どうすれば惟任軍から主導権を奪えるかを熟考していたのだろう。そのひとつが、雨の日の強襲であった。

本能寺の変からわずか11日で光秀の天下は終わった

そして決め手は兵力差であろう。大義名分では、下克上を果たした無敵の人より、信長様の弔い合戦を唱える秀吉方が圧倒的に上である。将軍とすら決別した織田家臣にとって、最高の大義は信長の存在にあった。伝統的権威ではない。人は反・光秀の陣営に集まる。

兵力差は、秀吉側が光秀軍の約2倍。力押しされた光秀は敗北した。

わずかな供廻りと共に逃亡する光秀は、帰城するところを落ち武者狩りに襲われ、首を取られた。6月13日、享年55――。

本能寺の変からわずか11日後のことであった。

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