武田と北条は伊豆に軍隊を動かして一触即発状態に
これに対し、北条軍は9月17日に伊豆に出陣し、三島から初音ケ原(三島市川原ヶ谷)にかけて布陣した。そして両軍は、黄瀬川を挟んで対峙し、しばしば矢軍や夜襲が実行されたものの、本格的な開戦には至らなかった。
この時、氏政が動員した兵力は大軍であったらしく、3万6、7000人(『軍鑑』)とも、6万余(『信長公記』)ともいわれるが、それは誇大だとしても相当の軍勢だったことは間違いない。それに対し、武田軍は、武蔵鉢形城の北条氏邦の動向に配慮して、西上野の軍勢を残留させたため、甲斐・信濃衆を中心に1万6000人ほどであったという(『軍鑑』)。武田軍の寡兵は否めなかった。
北条軍の出陣を確認した家康は、9月18日、懸川から牧野城を経て、二山(藤枝市末広にあった本宮山<正泉寺山>と藤五郎山の総称)に布陣した。なお、この直前の9月15日に、家康嫡男信康が二俣で自刃している。
家康は勝頼が北条とにらみ合っているすきに駿河を攻撃
家康は、武田軍が黄瀬川で北条軍と対峙しており、容易には動けぬと判断し、9月19日、1万余の軍勢を率いて当目峠を越え、駿府の関門である持船城(用宗城)に猛攻を仕掛けたのである。当時持船城には、駿河衆三浦兵部助義鏡と武田海賊衆向井伊賀守正重らが在城していたが、徳川軍の猛攻により遂に城は陥落し、三浦・向井らは戦死した。
勢いに乗った徳川軍は、そのまま一挙に駿府に乱入し、駿府浅間神社などを放火したばかりか、一部の徳川方は由比(由井)、倉沢に進み、一帯を放火したという。この様子は、浮島ヶ原の武田勝頼からも望見できたであろう。勝頼は、家康と氏政に挟撃される恐れが出てきたのである。なお家康自身は、重臣・酒井忠次の諫言もあり、駿府には進まず、持船周辺に在陣して事態を見守っていたという。