※本稿は、平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
長篠合戦後、家康は築山殿・信康の処断に追われていた
長篠合戦の4年後、天正7年(1579)7月、武田勝頼と北条氏政が断交し、交戦状態に入ると、家康は北条氏との同盟を模索し始めたらしい。ただ家康は、同年6月頃から岡崎城の息子信康・五徳夫妻と正室築山殿の問題に忙殺され、これに一定の決着がつく8月まで身動きが取れなかったとみられる。だが、信康を岡崎城から追放し、逼塞させた8月上旬以後、ようやく対外政策に取りかかる余裕が出たらしい。
家康の動きが停滞するなか、勝頼は、天正7年8月、遠江高天神城に番替衆1000人を派遣したという。それを率いていたのは、岡部元信(駿河衆、前遠江小山城将)、相木常林(信濃衆、依田阿江木氏)、旗本足軽大将・江馬右馬丞(飛騨衆)、横田尹松らであった(『軍鑑』他)。これが高天神城に対し、勝頼が実施した最後の大規模な兵員入れ替えとなったのである。
小田原の北条氏政は勝頼と断交し、家康に乗り換える
9月、家康は家臣・朝比奈弥太郎泰勝(今川氏真旧臣)を使者として、海路伊豆に派遣し、北条氏と協議を行わせた。その結果、北条氏政は、家康との同盟を了承し、9月3日に、相互で起請文の交換がなされたという(『武徳編年集成』他)。
これは事実の可能性が高く、朝比奈派遣はそれ以前から行われていた外交交渉の仕上げという意味があったとみられる。朝比奈は、9月5日に浜松に帰り、家康に復命している。これを受けて家康は、徳川家中に、北条氏との同盟成立を通達した。そのうえで家康は、9月13日、諸将に対し、来る17日に北条氏と協同で武田勝頼を攻めることを明らかにし、出陣の下知を行っている(『家忠日記』)。これを受け、徳川方諸将は、17日に続々と軍勢を率いて懸川城に集結した。
いっぽうの北条氏政は、9月14日に家康重臣・榊原康政に書状を送り、同盟と共同作戦の成立を喜び、今後は家康への取り成しを依頼すると申し送っている。
武田氏は、8月15日に、家康が近く駿河に出陣するとの情報を得て、同20日、駿河に出陣した。勝頼は、徳川の出方を窺いながら、沼津に軍勢を進めつつも、家康の進出に備えて、浮島ヶ原に在陣し、武田軍を沼津三枚橋城から浮島ヶ原にかけての東海道沿いに配置した。