※本稿は、中村真一郎『源氏物語の世界』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
『源氏物語』にはろくなことは書かれていない
現代の我が国の文明は非常に余裕に乏しいから、文学なども贅沢な熟したものは一般には喜ばれない。現代で流行するものは、まず平易で誰にも理解できなくてはいけない。それから、庶民的でなくてはいけない。さらには国民的全人民的でなくてはいけない。人生はいかに生くべきかという、宗教的哲学的実用的な要請に答える思想が判りやすく表現されていなくてはいけない。
そうして『源氏物語』には、以上のような大事な要素が、まるでないのだということを、誰か通読したことのある人間が、一度断わっておくのが親切かと思うので、私がこの文章を書くことにした。
私のこの意見は信用した方がいい。信用しないで、『源氏』を代表的な国民文学であるはずだとか、人生いかに生くべきかということが書いてあるはずだ、などと思いこんで、読んで損をする人があっては、何しろ、あれだけの大部のものだから、まことにお気の毒だと言うより外はない。
とにかく初めから終りまで、道徳的に見たら碌なことは書いてない。少年少女諸君、あるいはそれと同程度の知能の大人諸君がこの本を読んで、その真似をすることになったら、そして、『源氏物語』に書いてあることに刺戟を受けて悪いことをいたしましたなどと、警察で白状したら、第二のチャタレイ裁判事件を惹き起す可能性なしとしない。
専門家は読まない劣等感を刺激するな
『源氏』の文章が、伊藤整氏の訳文のようには平易明快でなかったことが、辛うじてこの作品を取締りの対象となることから免がれさせてくれていたのだと思うと、紫式部の複雑難解な文章を、ほとんど賞讃したくなる。
戦争中には、谷崎氏の現代訳が出たばかりに、『源氏』は皇室に対する不敬だとか、国民精神にとって有害だとかいう議論を唱える、元気のいい人たちが現われたし、その人たちも今だって、そう信じて、ただ黙っているだけだろうし、それに、これからの若い人でも、時代の空気が変ってくれば、たちまちそういう議論をまたはじめる気になる者もあるに違いない。
だから、専門家も『源氏』を国民必読の教養書だとか、理想主義的な文学だとか、あまり文学の判らない人たちに、読まないことの劣等感を刺戟するようなことを言って、あおり立てない方がいいと思う。