日本人の犠牲によって銃規制は進んだが…

実は今から約30年前、日本人留学生が米国の銃暴力の犠牲となる事件が起きた。

1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュの高校に留学していた名古屋市出身の服部剛丈さん(16歳)はハロウィーンの仮装パーティーに行く途中、訪問先を間違え、別の家を訪ねた。その家に住んでいた白人男性は彼を強盗かと思い、両手に銃を構えて、「フリーズ!(動くな)」と叫んだが、服部さんはそれが聞き取れなかったのか〔「プリーズ」(こっちに来い)と聞き間違えたともいわれている〕、止まらずに男の方に向かって歩き続けたため、撃たれて死亡した。

服部さんを撃った白人男性は傷害致死罪で起訴されたが、裁判では「不法侵入者から身を守るために引き金を引いた」という正当防衛の主張が認められ、無罪評決を得た。何の武器も持っていなかった彼を撃つ必要はなかったことは明らかだったが、裁判が行われたのが米国でも特に銃の所持・使用に寛大な南部の州だったことも影響したようだ。

民事裁判では、正当防衛ではなく、殺意を持って射殺したとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出された。しかし、裁判所に命じられた賠償金のうち10万ドルは支払われたものの、残り55万3000ドルは現在も支払われていない。被告は自己破産し、行方はわからないという。

その後、服部さんの両親は銃による被害を少しでも無くそうと、米国の銃規制を求める署名活動を始めた。服部さん夫妻は日本と米国で約180万人分の署名を集め、1993年11月に当時のクリントン大統領と面会し、それを手渡した。

銃規制の署名簿をクリントン大統領に提出した服部さん夫妻と、剛丈さんの写真を見入るクリントン大統領=1993年11月16日、アメリカ・ワシントン
写真=時事通信フォト
銃規制の署名簿をクリントン大統領に提出した服部さん夫妻と、剛丈さんの写真を見入るクリントン大統領=1993年11月16日、アメリカ・ワシントン

クリントン政権と議会民主党はその数カ月前から、拳銃の購入者に5日間の身元調査期間を義務付ける銃規制「ブレイディ法」の準備を進めていたが、夫妻が署名を渡した約2週間後にこの法案が可決したため、「署名活動がその後押しになった」とも言われた。

クリントン政権は翌1994年にも殺傷力が高くて銃乱射事件によく使用される半自動小銃など19種類の攻撃用銃を禁止した「攻撃用銃禁止法(AWB)」を制定した。しかし、この2つは時限立法だったため、ブレイディ法は1998年に、AWBは2004年に失効した。

なぜまともな銃規制を実施できないのか

ブレイディ法が施行された最初の1年間に全米で約4万件の違法な拳銃の購入が阻止されたという。また、攻撃用銃禁止法が施行された1994年からの10年間に銃乱射事件は大幅に減少し、それが失効した後に再び増え始めたとの調査結果も出て、銃規制の効果は実証された。ところがその後米国では、連邦レベルのまともな(効果が十分期待できる)銃規制法は制定されていない。

2022年6月に28年ぶりに連邦銃規制法が制定されたことは日本でも報じられたが、これは全米ライフル協会(NRA)の影響を受けた共和党議員の反対によって、肝心の銃購入者に対する身元調査の厳格化や半自動小銃の禁止などの項目が除外され、まったく不十分な内容になってしまった。

米国が効果的な銃規制をなかなか実施できない理由としてよく指摘されるのはNRAと、国民の銃所持の権利を保障しているとされる憲法修正第2条の存在である。

NRAは1871年に南北戦争の退役軍人らによって娯楽用のライフル射撃の促進などを目的に設立されたが、現在のように政府の銃政策に影響を与えるようになったのは1975年にロビー活動専門の部署が設置されてからのことだ。NRAの強さの秘密は約500万人にのぼる会員の銃所持に関する権利へのすさまじい情熱と団結力に加え、豊富な資金力を使った政治家へのロビー活動などにある。