ノンフィクション作家の稲泉連さんは小学校に入る前の1年間、「キグレサーカス」で暮らした経験がある。炊事係としてサーカス団で働き始めた母と一緒に、日本全国の公演に帯同した。それは「夢のような場所」と記憶されているが、果たして事実なのか。関係者を訪ね歩いたノンフィクション作品『サーカスの子』(講談社)の執筆背景について、稲泉さんに聞いた――。

サーカスで暮らした淡い記憶をいつか確かめたかった

――取材のきっかけを教えてください。

自分にとってサーカスで過ごした日々は、ずっと大切な思い出でした。小学生の時も中学生の時も、折に触れて何度も何度も思い返してきました。サーカスではこうだったな、ああだったな、と楽しかった記憶を大事にしていたからでしょう、サーカスでの日々は自分にとって忘れられない思い出として胸に焼き付けられています。

キグレサーカスの入り口でポーズをとる4歳の筆者。カンバンには「夢と冒険の国」「日本最大のサーカス」と書いてある。
写真提供=稲泉連
キグレサーカスの入り口でポーズをとる5歳頃の筆者。カンバンには「夢と冒険の国」「日本最大のサーカス」と書いてある。

また、母親(ノンフィクション作家の久田恵さん)が著書『サーカス村裏通り』にキグレサーカスでの体験を書いているのですが、母から当時の話をときどき聞いていたこともあって、サーカスで暮らした一つひとつの風景が自分の中に断片として残っていました。

ただ、私にとってサーカスの思い出は、同時になんだか夢の中で起きた出来事のように感じられることもあります。自分が覚えていることなのか、母から聞かされたことなのか、例えば、何度も思い返しているうちに夢で見た光景なのか――。そんなふうにいろんな記憶が入り交じっている。そのような淡い記憶を、いつか確かめてみたいという思いがありました。

「れんのサーカス狂い」と呼ばれるくらい大好きだった

そんな中、新聞社から「思い出の地」について語るインタビューを受けたのは、4年ほど前のことでした。そこで私は「キグレサーカス」での体験を記者に語りました。そして、記事で使用する写真の撮影場所として指定されたのが、「ポップサーカス」という別のサーカス団の公演地で、撮影で知り合った団員の方から「うちにもキグレから来た人がひとり働いているんですよ」と教えてもらったんです。

それが偶然にも私がサーカスにいた時に芸人たちのリーダー的存在だった八木さんという人でした。キグレサーカスは2010年に廃業しているのですが、どういう場所だったのか、当時サーカスで一緒に暮らしていた人に聞いてみたいと思い、八木さんに会いに行きました。

――サーカスにはどんな思い出があるんですか。

団員の人たちから「れんのサーカス狂い」と呼ばれるくらい本当にサーカスが好きでした。私は4歳の時、母に連れられてサーカスに来て以来、ほぼすべての公演をひと月以上にわたって見続けていたそうです。どれだけ走り回って遊んでいても、ショーの始まる音楽が聞こえれば「あ! サーカスが始まる」と大天幕へ一目散に向かったのを確かに覚えています。

炊事係として働く母に「サーカスに出てほしい」と何度も言っていたので、母は「あんたも舞台に出ればいいっしょ。サーカスに来て一輪車もできんのは恥ずかしいぞ」とみんなにからかわれ、ほとほと困り果てたようです。