年代も作者も不明

ちなみに「武田信虎」像は、信玄の弟である武田信廉が描いたものです。最晩年の信虎を描いたものとされ、痩せた体躯と坊主頭、鋭い眼光が特徴的です。

私も「武田信虎」像・「武田勝頼」像と「武田晴信」像を見比べてみて「体躯や顔立ちに似ている点があるな」と感じました。そして、成慶院所蔵の「武田信玄」は、それら「信虎」、「勝頼」と顔立ちなどが似ていないと思います。

絹本著色武田信虎像
絹本著色武田信虎像(画像=武田信廉筆/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
武田勝頼
武田勝頼(画像=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

とはいえ、持明院所蔵の「武田晴信」画にも謎があるのは事実。画讃(絵の余白に書かれた文章)、落款(書画に作者が署名・捺印すること)もなく、画像を描いた画家も誰か分かっていません。

この画像は「恐らくは、甲斐守護になった後、4、5年の間の寿像であろう」(【原色】『武田遺宝集』武田信玄公宝物保存会)とされますが、その文言から分かるように、描かれた年代も定かではありません。

かなり有力な候補だが…

信玄が父・信虎を追放し、甲斐守護となったのが、天文10年(1541)。その4、5年後と言えば、天文14年(1545)か天文15年(1546)ということになり、信玄は大永元年(1521)生まれですので、24歳~25歳頃の肖像ということになります。

しかし、本像は、口ヒゲ・顎ヒゲを生やし、頭頂も薄くなっており、もう少し後年の肖像ではないかなどと感じてしまいます。

高野山には武田氏の菩提所があり、その宿坊は成慶院と持明院でした。かつて持明院は引導院と呼ばれ、そこに、武田家滅亡(1582年)後、武田勝頼の遺品が奉納されます。

その中にあったのが「武田信虎像」「武田晴信像」「武田勝頼、同夫人、信勝像」の肖像画だったのです。持明院所蔵「武田晴信像」は『武田勝頼遺物目録』に「武田信玄公寿像」とありますし、直垂には武田家の定紋「花菱」が複数描かれていますので、おそらく信玄の肖像とは思われますが、断定することはできません。