1988年に起きたミャンマーの民主化闘争。デモ参加者への弾圧から逃れるため、17歳で来日したキンサンサンアウンさんは「祖国で貧しい人々の面倒を見る母にお金を送るため、いくつものバイトを掛け持ちして働いた。でもある時、神様は本当にいるのか確かめたくて、夜間の神学校で学ぶことにした」という。文筆家でイラストレーターの金井真紀さんの著書『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)より、その一部を紹介しよう――。(後編/全2回)

「労働一色」の17歳

前編はこちら)

1989年、サンサンさんは日本にやってきた。

17歳だった。同世代のわたしはその頃なにをしていただろう。日本は景気がよくて、みんな浮かれていた。決して裕福ではないわが家でも、父が車を買い替えたり、弟がCDコンポを買ったりしていた。わたしは冬になればコートやブーツを、夏になればサンダルや水着を買い揃えてもらっていた。

一方サンサンさんは茨城のお姉さんの家に厄介になり、農業の手伝いと工場のパート仕事でお母さんへの仕送りを開始する。留学ビザを得るため名古屋の学校に入学するも、途中で学費が払えなくなりビザは切れた。当時、日本政府は労働力を確保するため、オーバーステイの外国人労働者を黙認していた。サンサンさんの日常はまさに労働一色。

キンサンサンアウンさん
イラスト=©金井真紀
キンサンサンアウンさん

「名古屋では学校に行きながら焼肉屋さん、お風呂屋さん、新聞配達のアルバイトをしていました。学校を辞めて東京に戻ってからはお好み焼き屋さん、24時間営業の喫茶店、お弁当屋さん、居酒屋さん……ずっと立ちっぱなしで、ひとつのバイトが終わると次のバイトまで走って行くの」

朗らかな口調で語られる苦労に、圧倒される。

最後のバイトが終わるのは深夜で、数時間後には早朝バイトが始まる。つねに寝不足で、当時の願いはただひとつ「一度でいいから座ってやる仕事をしてみたい」だった。

「バイト先のお弁当屋さんに、近所の会社員がお昼ごはんを買いにくるの。若い女の子たちはきれいな服で、ゆっくりおしゃべりしながら、楽しそうにお弁当を選んでた。それが羨ましかった。自分には無理だとわかっているんだけど、憧れるような気持ちで見ていました」

お弁当屋さんの厨房で、サンサンさんは大量の玉ねぎを刻んだ。涙がにじむから、それに紛れてこっそり泣いていたという。あぁ、こちらまでもらい泣きしそうだ。