日本史上最大の城

しかし、それで驚いてはいけない。外郭をふくめると、その広さは2000万平方メートルを超えるのだ。そういってもピンと来ないかもしれないが、外郭の周囲がおよそ15.7キロにもなるといえば、大雑把には広さが実感できるのではないだろうか。

外郭とは外堀の内側で、外堀にはかつて「三十六見附」と呼ばれる門が設けられていた。見附とは交通の要所に置かれた番兵による見張り所のことで、江戸城では門それ自体を見附と呼んでいた。

その見附はどこにあったのか。いくつか地名を挙げると、浅草橋、万世橋、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四谷、赤坂見附、溜池、虎ノ門、御成門……。

東京を知っている人ならわかると思うが、同じ城の門があったとはとても思えないほど、広範囲におよんでいる。江戸城の広大さが実感できるだろう。そして、その内側はどこも、かつては城内だったのである。

では、外堀とはどのくらいの規模だったのか。JR中央線で四ツ谷方面から御茶ノ水方面に向かうと、市ヶ谷と飯田橋のあいだは左手に広大な池があり、右手は斜面になっている。これがどういうシチュエーションかというと、左手の水辺は外堀、右手の斜面は外堀の土塁で、要するに中央線は外堀のなかを、その一部を埋めて走っているのだ。

中央・総武線各駅停車、飯田橋~市ヶ谷間で撮影。外堀の桜が開花。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
桜の名所のひとつでもある外堀。右側は外堀の土塁だ。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

また、御茶ノ水駅は、深い渓谷の途中に設置され、はるか下を神田川が流れているが、この川は江戸城の北側の守りを固め、かつ神田方面の洪水を防ぐために、台地を人力で切り裂いて通した人口の外堀なのだ。

決して僻地への左遷ではない

徳川家康が駿府(静岡)から江戸に移ったのは天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで、関東に君臨していた北条氏が滅んだのちのことだ。

それまで駿河(静岡県東部)、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国を治めていた家康は、論功行賞として、伊豆を追加してもらえると思っていたフシがあるが、現実には、北条氏の旧領である関東への移封だった。

石高こそ増えたものの、事実上の左遷だった。しかし、当時の江戸は、かつていわれていたような辺鄙な漁村ではなかった。関東はもちろん東北南部からも人とモノが集まり、伊勢湾など西方とのあいだの海運も盛んで、水運、海運、陸運の要衝だったのだ。

だから、秀吉は畿内から遠い関東に家康を封じ込めると同時に、交通の要衝を固めさせ、不安定な北関東や東北の情勢に対応させようとした、と考えられている。そして家康もまた、置かれた状況を逆手にとって、着々と江戸城、および江戸の町の整備を進めていった。