終戦後、GHQの占領下におかれた日本ではさまざまな改革が実行された。ノンフィクション作家の保阪正康さんは「国語教育も改革対象となり、国民生活にローマ字を導入する動きがあった。この日本語ローマ字化計画を阻止したのは、1948年に行われた国語テストの結果だった」という――。
※本稿は、保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
軍人の手によって一変した小学校の教科書
昭和という時代、特に戦争にゆきつくプロセスでは、教育は軍事の側からの干渉であっという間に崩壊した。昭和8(1933)年の第4次の国定教科書改訂で、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」に低学年の教科書は変わった。大正7(1918)年の第3次改訂による市民的自覚を促す内容は一変してしまった。
なぜか。答えは簡単だ。第4次の改訂にあたっては、これからの戦争は国家総力戦だから、小学校の教科書づくりには軍人も参加させろと陸軍大臣が圧力をかけ、それを文部大臣が受け入れたのだ。軍事主導礼賛、天皇の神格化というまさに2本柱で教科書は埋まった。大正デモクラシーの片鱗はあっという間に消え去った。
「ありのままを書いた作文」は犯罪になった
もう一つ例を挙げよう。昭和5(1930)年から8(1933)年にかけて、長野県をはじめ各県で教員の赤化事件が起こっている。狙われたのは大体が綴方(作文)教育に熱心なタイプの教師たちである。写実的、実証的な作文を書くことはことごとく文部省(現文部科学省)の視学官たちによりにらまれた。
たとえば、家の貧しさ、父母の苦しい生活をそのまま書くのは許されない。そういう作文をテコにして共産主義思想をふきこむというのである。「作文はありのままを書きなさい」ということ自体が犯罪だったのである。
これは私が昭和13(1938)年ごろに関東地方のある中小都市で小学校の教師を務めていたという老教育者から聞いた話である(その教育者はかなり保守的な教師である)。