「あの家庭は偏っている」と校長が密告することも

この時代は天皇を神格化して教える時代に入っている。それが顕著になったのは昭和10(1935)年前後の国体明徴運動(美濃部達吉の天皇機関説を排撃する運動)のころからだという。

子供は、天皇陛下は神様であると作文に書く。家に帰って、天皇陛下は神様ですとその日に習ったことを口にする。お父さんやお母さんが受けた大正時代の教育ではそこまではいっていない。「そんなことないわよ。神様のわけないでしょう」と反論したとする。

それを子供は学校の作文で書く。なかには強い言葉で批判がましく否定する親もいるだろう。作文は、はからずも家庭の思想調査として利用されたケースもあるという。思想的偏りがあると思われるケースは、教員は校長に、校長は都道府県のしかるべき機関などに届けたり、密かに報告したりといったことも珍しくなかったのだ。

以上は戦時中に行われた極端な国語教育であるが、戦後にはこれとは全く違うドラスティックな国語教育改革が行われようとしていた。日本語のローマ字化である。

修身教育を否定した戦後の教育制度

昭和22(1947)年4月、「6・3・3・4」制が発足した。戦前の複線型の教育制度が単線型に変わったわけだが、むろんこれは占領下日本の教育改革の第1弾であった。この制度の他に、男女共学、教育委員会の設立、教職員組合の結成、副教科社会科の導入など、連合国軍総司令部(GHQ)の命令、あるいは示唆などにより、教育の民主化が進められた。

私は昭和21(1946)年4月に国民学校に入学したが、2年生からは小学校に名称が変わったことを覚えている。

こうした教育改革は、GHQの要請で来日したアメリカ教育使節団(G・D・ストダード団長)の報告書に基づいている。教育の民主化のためにどのような改革が必要かといった視点で、日本国内を視察し、教育関係者に会ってまとめた報告書であった。実際にこの報告書の内容がほとんど採用された。

「日本の教育では独立した地位を占め、かつ従来は服従心の助長に向けられてきた修身は、今までとは異なった解釈が下され、自由な国民生活の各分野に行きわたるようにしなくてはならぬ」と否定され、それが社会科の誕生ともなった。

中学校、高校での社会科の授業は、社会生活の理解と個人の自覚を訴えており、教科内容もアメリカの教科書を参考にしていたのである。