日本美術の評価の礎をつくった人物

近代以降の日本美術の動向を考える際には、明治時代に来日した前述の東洋美術史家、アーネスト・フェノロサと並んで、思想家の岡倉天心(岡倉覚三、1863~1913)を忘れることはできない。

寺社とその宝物の調査なども含め、彼らの「道具」に対する近代的な考え方と活動とが、日本美術を「再発見」したと言える。後に岡倉はボストン美術館中国・日本美術部長を務めるなど、国際社会における日本美術の評価の礎をつくった人物で、私もたいへん尊敬している。

さて、そんな岡倉の有名な逸話にこういうものがある。

あるとき岡倉が横山大観や菱田春草と、和装でボストンの街を歩いていると、ひとりの若者にこう声をかけられた。

“What sort of ʻneseʼ are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?”

(おまえたちは「何ニーズ」だ? チャイニーズかジャパニーズか、それともジャヴァニーズ[ジャワ人]かな?)

明らかに東洋人を侮蔑した言葉を投げつけられたわけだが、その際の岡倉の切り返し方がふるっている。

“We are Japanese gentlemen. But what kind of ʻkeyʼ are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?”

(私たちは日本の紳士だ。ところで、そう言うあなたは「何キー」だ? ヤンキーか、ドンキー[ロバ。「とんま」の意も]か、それともモンキーかな?)

これだけきっちりと英語で、しかもカウンターパンチで言い返されると、アメリカの人も「おっ」と思ったのではないか。

英語で世界に発信できた稀少な人物

そして、やはりこれくらいの気概と機知を持って世界へ出て行った岡倉であったからこそ、あの時代に日本人として現地で一目置かれ、ボストンという古い、白人エスタブリッシュメントの町で協力者・支援者を得て地位を確立し、さらには同地での日本美術蒐集や日本美術ファンを増やすことに尽力できたのではないか。

もしも彼がいなければ、後の国際社会における日本美術の評価は、だいぶ違ったものになっていたのではと思う。

また岡倉は『The Book of Tea』(茶の本)など、日本文化を英語で紹介する本も執筆した。これもたいへん重要なことで、日本美術の長い歴史の中でも、自らの英語の文章で世界に発信できる人がそれまでいなかった(今ですら日本の美術界では数少ない)からで、同時代人でも、禅を欧米に広めた鈴木大拙ぐらいしかいなかったのではないか。

後には岡倉の弟子であった富田幸次郎がボストン美術館アジア部長となり、やはり日本美術を含む東洋美術の蒐集と紹介に努めた。

19世紀のボストン美術館の絵
写真=iStock.com/Grafissimo
※写真はイメージです

また、アメリカの一流大学で日本美術について教鞭を執った傑出した美術史家、島田修二郎、村瀬実恵子、清水義明の3先生の功績も大きい。