「お荷物」部署で挑戦の土台養う

1959年1月、横浜市で生まれた。家系を遡ると、三河湾の海賊に至るらしい。父は特攻隊の生き残りで、母方の祖父がやっていた港湾荷役の会社にいた。荒っぽく、男臭い世界で育つ。そういう氏育ち故か、義理人情に弱く、何かを頼まれると、断るのに苦労する。そんな血が、「挑戦」へとかき立てる。

横浜翠嵐高校から慶大経済学部へ進み、81年4月、三菱商事に入社した。配属先の食料本部砂糖部は、2年続けて巨額の赤字を出し、社内で「お荷物」とみられていた。同期生たちに「もう、お前の将来はないな」とからかわれる。でも、後から考えれば、得した点も少なくない。最初は14人いた所属の課が、業績不振ですぐに6人に減る。そのお陰で、世界を相手にするトレーダーの仕事が3年目に回ってきた。単純な売買では儲からないから、いろいろなアイデアを考えて、ともかくやってみる習慣も身についた。

40歳になった99年、経営が悪化し始めたダイエーから、子会社ローソンの株式売却話が三菱商事に舞い込んだ。外食部門のチームリーダーとして、交渉に加わる。翌年4月にはローソンプロジェクト統括室長兼外食事業室長となり、徐々にローソンに引き寄せられていく。

2002年3月4日、昼休みの後で社長に呼ばれた。いくと、ローソンの社長になるように告げられる。すでに、三菱商事はローソン株を約30%買い取り、業績を左右する存在になっていた。しかも、ローソンの業績も株価も下り坂にあった。厳しい職務だが、胸の中にたまっていた「事業をやりたい」という火が、大きく燃え上がる。

デフレ下の低価格志向のなかで、食材を安く少量で売る競争相手も増え、「ローソンストア100」などの店舗展開は、目標よりも遅れ気味だ。中核の「青いローソン」でも、かつては女性に特有だった「健康志向」が、来店者の中心である若い男性にも広がって、肉料理や揚げ物を入れたボリュームのある弁当類の売れ行きが落ちた。弁当のてこ入れ対策は、長く増量が定番だったが、もはや量を増やしても販促効果は乏しい。ここでも、一律的な成功体験は見直しを迫られた。

危機感は、増すばかりだ。でも、「挑戦」の気構えは、少しも変わらない。いま日本では、高齢者夫婦だけ、あるいは独り住まいの高齢者が急速に増えている。「買い物は近くで」「生鮮野菜や肉は少量でいい」とのニーズは高い。11年3月の東日本大震災の後、「何か食材はないか?」と店をのぞき、野菜や肉を少量単位で買えることを発見した高齢者や主婦が、繰り返し来店する「リピーター」に、数多く加わった。

やはり、中高年や女性に、もっと店に来てもらうようにする工夫が重要だ。そうした客層の拡大は、まだ道半ばにも来ていない。そして、もう一つの成長への軌道が、次回で触れる海外進出だ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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