日本の抹茶は兵士の「疲労回復」に重用された

昭和に入ると、緑茶は日常生活に定着、紅茶も少しずつ輸入されるようになっていました。しかし戦争が始まると、敵国であるイギリス紅茶の輸入は当然ストップ、食料不足とともに嗜好しこう品の位置づけだった緑茶は制限作物となり、茶畑ではじゃがいもや穀物などへの転作が進みます。

特に高級な玉露や抹茶の原料となる碾茶てんちゃは贅沢品とされ、製茶が禁止となります。危機感を覚えた宇治の茶業組合は、軍用として採用してもらえないかと陸軍航空技術研究所に訴えました。

抹茶と茶筅
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そこで、抹茶の効能を調査したところ、覚醒作用やビタミン補給として活用できると評価され、軍の食糧庫へ納められることになったのです。軍用として採り上げられた抹茶は、不急作物から外され、京都の茶業はなんとか命をつなぐことができました。

また、京都府立茶業研究所は「糖衣抹茶特殊糧食」(固形の抹茶に糖分を含む被膜を施したもの)を開発し、航空機や潜水艦に乗り込む兵士の疲労回復と眠気覚ましとして、広く重用されました。

1971年の輸入自由化で日本独自の紅茶文化が育ち始めた

戦後になると、在日外国人のためにホテル用の輸入枠が認められましたが、「紅茶はリプトンのみ」「輸入業者は明治屋限定」などの縛りがあったため、日本にも密輸品が入ってきたり、闇ルートのようなものも存在したといいます。

日本の紅茶史が転換期を迎えたのは、昭和46年(1971年)の「紅茶輸入自由化」です。

高度経済成長とともにライフスタイルも変化、朝食はダイニングテーブルを囲み「紅茶とトースト」など、西洋化が進んでいきます。同時に、アメリカで広まったティーバッグが日本の食卓にも登場し、「リプトンや日東紅茶の黄色いラベルに赤いロゴの紐付きティーバッグ」がお目見えします。

「日本式のお紅茶」には、ミルクかレモンと一緒に角砂糖を入れ、甘くして飲むというスタイルが浸透しました。

昭和50年代に入ると、紅茶のギフト市場が活性化。贈答用として「トワイニングの色とりどりのティーバッグ詰め合わせ」や「フォションのゴールドの包装紙に包まれた紅茶缶」などが大流行しました。

喫茶店では、本来コーヒーをいれるカフェティエールという器具にティーサーバーという名がつけられ、おしゃれな紅茶をいれる道具として広まります。

昭和レトロな「紅茶の原風景」ともいえるこうした時代背景から、第一次紅茶ブームがはじまりました。

そして昭和60年代のバブル期、英国紅茶文化の象徴でもあるアフタヌーンティーがトレンドとなります。まずは、英国系ティールームが「シルバーの3段スタンド」というアイコンを高々と掲げ、英国製のボーンチャイナのティーセットとともに優雅なティータイムというイメージを確立します。