IBMのパソコンを変えたメモ
振り返れば思い出深いメモもある。写真は84年10月8日にIBMのパーソナルコンピュータ(PC)開発の総責任者だったドン・エストリッジと会ったときのメモだ。
80年代初頭、大型汎用コンピュータで世界一だったIBMはアップルが大きく先行していたPC市場への本格参入を決め、ドン・エストリッジ率いるチームがPC開発を担当することになった。このとき日本のエレクトロニクスメーカーのやり方を大前から学べということで、エストリッジが私のところに相談にやってきたのだ。
私は彼に新しいPCのコンセプトをいくつか提示したうえで「PCの基幹部品やOSは自分のところでつくろうと思うな。買ってきてオモチャみたいにつくれ」とアドバイスした。当時のIBMでは基幹部品やアーキテクチャーはすべて内製するのが常識だったが、エストリッジは既製品のパーツを買い集めることできわめて短期間でIBMPCの第一号をつくりあげた。
チャップリンを広告に使った初代のPCは爆発的にヒットした。しかし徐々に売り上げが落ちてきて、第2弾をどうするかという話になり、再び私のところに連絡がきてエストリッジと会うことになった。写真のメモはそのときに彼に言おうと思っていたことを書き出したものだ。
IBMはテクノロジーカンパニーと称しているが、素人さん相手に商売するのがPC。技術の高さを前面に押し出すのではなく、ユーザーから見てなるほどと思うような使い勝手のいいアプリケーションを内蔵していなければユーザーの支持は得られない。そこを考えて設計しているのか――。そんなディスカッションをしながら、新しいコンセプトを提示したことを覚えている。
エストリッジと私は電話一本で話が通じる仲だったが、エストリッジのチームはIBMの伝統的なラインからは嫌われていた。本社から遠く離れたフロリダ州ボカラトンの事業所で、ヒゲ面に草履履きというヒッピースタイルでIBMの常識を覆すような仕事をしていたからだ。
このミーティングの後、ニューヨークでもう一度会う約束になっていたが、85年の夏、エストリッジは飛行機事故に遭って帰らぬ人となり、約束が果たされることは永遠になかった。
もう一人、マレーシアのマハティール元首相も思い出深い人物だ。私は82年から18年間、マハティール首相のアドバイザーを務めたが、本当に素晴らしいリーダーだった。
※すべて雑誌掲載当時