私を私で居させてくれるもの
気管切開し、人工呼吸器を使っている妻は、声を出すことができない。身体を動かすこともできないため、文字を書くこともできない。
しかし中野さんは、コミュニケーションを取るための最新機器を調べ、福祉機器メーカーや販売会社に直接連絡を取り、公的な支援を得ながら、在宅介護生活に導入する活動もこなしてきた。
2017年には、体圧を常に感知して分散するマットレスの情報をALS患者会の会合で知り、いち早くメーカーに問い合わせ、公的な支援を得られる福祉機械販売会社を探し出し、タッグを組んで導入。
2018年には、パソコンに接続した視線入力装置を駆使し、モニター上の文字盤を視線で操作して文章を書き上げ、それを喋らせる装置「オリヒメアイ」と、Wi-Fiにつなげたパソコンに接続したロボットを使い、世界中どこにロボットを連れて行っても妻はベッドでロボットを操作できるという装置も導入。
中野さんがロボットを「落語の会」に連れて行くことで、中野さんは妻と落語を楽しむことができ、妻はベッドの上で落語を楽しむことができたわけだ。
この装置の導入には、自治体の公的支援も受けたが、妻が通っていた合気道道場の仲間たちによる寄付にも助けられたという。
同じ年の5月ごろからは、文字盤と視線入力装置「オリヒメアイ」を併用し、緩和ケア担当医師と中野さんとで、「身体が一切動かなくなったら、どうするか・どうしてほしいか」などを妻から聞き取った。
すると、いくつかの要望の中に「本を読んでほしい」というものがあった。小説の編集者をしていた妻は、根っからの“本の虫”だったのだ。
そこで中野さんは、大学の先輩に相談すると同時に、本を読み聞かせる方法を考える。
妻は、全く身体を動かせないため、鼻水や唾液、痰などを、機械を使って吸い取ってもらったり、身体の位置を頻繁にずらしてもらったりする必要があるが、ベッドサイドで読み聞かせるとなると、介助の邪魔になってしまう。また、読み聞かせをしてくれる人自体は、妻との共通の友人やその知り合いなど50人近く見つかったが、相手の時間や交通費などの負担を考えると心苦しくなった。
やがて中野さんは、「相手の都合の良い時間に、朗読をスマホなどで録画・録音し、クラウドに上げておいてもらえばいいのではないか」とひらめく。そうした進捗を妻に報告すると、妻の目は文字盤を追った。
「“本読み”は、私を私たらしむもの」
中野さんは息をのんだ。
「妻は、たとえ身体のどこもかしこも動かなくても、自発呼吸ができなくて人工呼吸器を使っていて声を出せなくても、『私を私でいさせてくれるのが“本読み”』だと言ったのです」
こうして本読みプロジェクトは進行し、現在クラウドには、300以上もの書籍の朗読データが上げられるまでになった。
そして2019年2月には、脳から出ている身体を動かすための生体信号を、センサーで検知する装置も導入し、57歳になった妻は、使いこなすための練習に励んだ。