日本銀行の金融政策の誤りと政治家の無関心が、景気低迷を招いた

安倍元首相への献花の列には、20〜30代と思しき若者が多く並んでいたと聞いた。平成生まれの彼らは政治的なアピールこそ少ないが、就職氷河期(1993〜05年)よりも悪化していた大学の就職内定率(10年12月の68.8%)を劇的に改善させた安倍政権の功を認めて、静かに手を合わせたのではないだろうか。

そもそもなぜ、日本経済はあれほど長期にわたって景気低迷に苦しんだのか。なぜアベノミクスがそれに終止符を打てたのかを、歴史的経緯を踏まえつつ振り返りたい。結論から述べれば、私は日本銀行の金融政策の誤りと政治家の無関心が、景気低迷を招いたと見ている。そして、安倍元首相はその構造的な問題点に、大ナタを振るった。それが、今までのリーダーとは違っていた点だ。

戦後の固定相場制(1ドル=360円)の時代から85年までは円安傾向が強く、輸出産業を中心に日本の産業は潤った。ところが、米国の貿易赤字を削減すべく開催された「プラザ合意」(85年9月)で、日本は円高基調への政策転換を呑まされる。それに対応しようと低金利政策を導入したところ株式や土地が高騰し、バブル崩壊(92年)を招いてしまった。

日銀は金融を緩めすぎて失敗した教訓から、以降はかたくなに引き締め傾向の運用を続けた。また、歴代の日銀総裁は円高を志向する人が多かった。私は経済財政諮問会議で速水優総裁(98〜03年)に景気回復のために金融緩和と円安誘導を進言したが、「円が世界から尊敬される通貨でありたい」という、つまり円高論者の速水総裁には通じなかった。

政治家はというと、かなりのベテラン議員や実力者と言われる人でさえ「財政や金融のことは財務省と日銀にお任せするのが間違いない」とおっしゃる方がほとんどだった。

01〜06年、日銀はあまりにも長く続いた景気低迷に、当時の福井俊彦総裁が「異常な」と評したゼロ金利を導入し、それによって日本経済には復活の兆しが見え始めた。ところが08年9月にリーマン・ショックが起こる。金融商品に組み込まれた大量の抵当証券が“シンデレラの馬車がカボチャに戻ったように”一夜にして紙屑と化し、金融危機に陥ったのである。

このとき、欧米の中央銀行は大量に通貨を発行し、件の抵当証券を買い入れることで混乱の収束を図る、大胆な策に打って出た。しかし、日本では抵当証券はほとんど普及していなかったこともあり、量的緩和を出し渋り、円高を招いた。各国通貨がゼロ金利になったとき、為替レートを決するのはマネタリーベースである。他通貨に比して供給量が少なければ、円高になるのは当然だった。財務省もまた「リーマン・ショックは日本経済には蜂に刺された程度でしかない」(与謝野馨経済財政担当大臣・当時)と高をくくっていた。