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「桜を見る会」の構造とまったく同じ

まず、僕の立場を表明しておくと、個人的には安倍元首相の業績は、「国葬」に値すると思っています。ただし、これはあくまで僕個人の意見。安倍さんに関しては、多大な功績もある半面、森友学園や加計学園を巡る問題もあり、後者を批判する立場の人も多くいます。そうした声を半ば無視して、極めて短期間で一方的に「国葬」決定を表明したことについては、僕は反対です。

賛否が大きく分かれる問題に対し、リーダーはどんな決断を下すべきか。このことは、賛否の分かれる選択肢のうち「どちらを取るか」ということよりも、「どういうプロセスによって決めるか」のほうが大事です。

きちんとしたプロセスを踏まずに決めたことに対しては、とりわけ反対派の人たちに納得感を持ってもらうことができないからです。逆に、プロセスを踏んでいさえすれば、反対派もある程度は納得してくれ、その後の大きな混乱を避けることができるのです。

その観点から、今回、岸田首相は誤った判断をしてしまったと思います。

もちろん「国葬」判断の背景には、様々な要因があったでしょう。なんといっても前代未聞の衝撃的な悲報です。悲しみに沈む世論、世界各国から寄せられる哀悼の意、メディアが連日称える安倍さんの功績の数々、大きな“声”に押され、「国葬」にすべしという判断に傾いたと推察されます。

日本の女性が喪服を着て
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです

しかし、今回批判されるべき点は、「安倍さんは国葬に値するかどうか」ではなく、シンプルに「手続き・基準のブラックボックス状態」にあるのです。誰が、どのような条件が重なったら日本国の「国葬」に値するのか。その基準が不明なまま、いわば世論と感情の波にのみ込まれて一気に「国葬」が決定されてしまった。その手続きの曖昧さ・不透明さが、多くの批判の声の源となっています。

これってどこかで見たような議論だと思いませんか。そう、当の安倍さんが批判の矢面に立った「桜を見る会」とまったく同じ構造なのです。

「桜を見る会」自体は、時の首相が1952年から主催してきた恒例行事です。ただし、当初は招待客規模も4000人超程度だったのが、安倍内閣時代には1万5000人以上に膨れ上がるなど、税金投入の是非が問われるようになりました。加えて招待者の基準が曖昧なことに対し、非難の視線が注がれたのです。

ここで改めて確認しておきたいのは、「桜を見る会」の主催者は日本政府であるということです。これが自民党や政治家個人が主催する政治イベントなら、誰を招待しようと、その基準がどれほど曖昧だろうと、政治家の政治的な判断に任せるしかありません。自分の支援者ばかりを呼ぶことが通例でしょうが、それはまさに政治活動そのものです。