〈大阪桐蔭、春夏連覇ならず〉”高校野球のヒール”西谷浩一監督はなぜ1学年20人しか入部を許さないのか(柳川 悠二/週刊文春 2018年11月1日号)

〈大阪桐蔭、春夏連覇ならず〉「不祥事で出場辞退」「控え選手」だった西谷浩一監督の「口説く」「見抜く」「耐える」 から続く

大阪桐蔭高校野球部の夏が終わった。8月18日の準々決勝、9回表に下関国際高校に逆転を許し、4対5で敗れ、春夏連覇はならなかった。「強すぎる」がゆえに、「あれだけの選手を集めれば勝って当たり前」と高校野球の”ヒール”となってきた大阪桐蔭。西谷浩一監督は、どうやって1988年創設の新興野球部を「憎らしいほど強い」チームに育て上げたのか。

 長きにわたり大阪桐蔭の取材を続けるスポーツライターの柳川悠二氏が徹底取材で迫った、2018年11月1日号の記事を再公開する(年齢・肩書き等は公開時のまま/全2回の2回目、#1から続く)。

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兵庫県宝塚市に生まれた西谷が小学6年生だった81年、地元・兵庫の報徳学園がエース・金村義明(元西武ほか)を擁し、全国制覇を達成する。その快挙に憧れ、西谷も同校に入学。だが、1年の冬にチーム内で不祥事が起きて対外試合禁止処分に。3年生となってからも、後輩が暴力を振るう事件が発覚して、最後の夏は戦わずして高校野球を終えた。

高校時代の西谷を知る人物は、こう振り返る。

「野球は下手やったけど、人間はエエやつやった。だから有名になった今も謙虚に振る舞えるんでしょう」

一浪して入学した関西大では、4年時に主将を務めながら、西谷のポジションはブルペン捕手だった。俯瞰的に野球を見るこの時の経験が、指導者としての下地となっていく。

「どうしたらPL学園に勝てる?」実行した“厳しい上下関係の廃止”

関西大を卒業した後は母校のコーチを務め、大阪産業大学高校大東校舎から校名を変更した大阪桐蔭のコーチに93年に就任した。常に大阪桐蔭の前に立ちはだかった大きな壁が、PL学園だった。いつもPL学園にどうやったら勝てるのか、そればかりを西谷は考えていた。

PL学園には厳しい上下関係があった。1年生は上級生の付き人となり、練習もままならないほど、先輩の世話に追われる。当時、大阪桐蔭にも似たような不文律があった。それを廃止したのが西谷である。

コーチ時代の西谷は寮に住み込み、PLの1年生が先輩の世話で忙しい最初の1年間で、入学段階で歴然としていた選手能力の差を埋めようとした。当時の上級生たちに頭を下げ、洗濯などを各自でやるように懇願。そして1年生にはまだ薄暗い朝の5時から練習を課し、西谷も付き添った。

98年に西谷は監督に就任する。徐々にPLとの差は縮まっていったが、何度もあと一歩まで追い詰めながら、気がつけばPLの校歌を聞いていた。

これまで春夏連覇したのは7校だけ

伝説のスカウトマンから学んだ「選手勧誘にコツなんかない」

選手勧誘(スカウティング)においても、西谷が参考にしたのは高校野球界で「伝説のスカウトマン」と呼ばれるPLの人物だった。