義父の死

それでも義父は頭がクリアな時と、そうでない時があった。ある日は簡単な計算を全問正解できるがが、別の日に作文を書かせると、「私がこんなふうになってしまったので、妻は出ていったと思います」と書いた。

「思い返せば、義父が私たち夫婦が暮らす(同じ敷地内にある)母屋にやってきて、『もう家(離れ)に置いてもらえん……』と私に訴えてきたことがありました。おそらく、義母にひどい仕打ちに遭い、私に助けを求めていたのでしょう。けれど、いつも私が義母から虐げられ助けてほしかった時に助けてくれない義父には親身になれず、『ここは義父さんの家だから、追い出されることはないよ』と言って、義母がいる離れに追い返してしまいました」

義母はかつて、自分にとっての義祖母(義父の母親)の介護をしていた。佐倉さんが嫁に来た頃には90歳を超え、すっかり丸くなっていたが、元小学校の教師をしていた義祖母は、気の強い人だったらしい。

義母は、「義祖母には何かとこき使われたから、私は嫁いびりはしない」と話していたにもかかわらず、いつしか同じように佐倉さんをこき使うようになっていた。

「足腰の弱った義祖母がおもらしした時には、義祖母自身に雑巾で拭かせたり、怒鳴り散らしたりして、当時、嫁に来たばかりの私は唖然としました」

また、佐倉さんは義祖母の誕生日に好物のショートケーキをプレゼントしていたが、「そんなもの食べさせて、お腹でも壊したら、私が世話するんだからね!」と90歳過ぎた義祖母のささやかな楽しみを奪おうとした。

イチゴのショートケーキ
写真=iStock.com/Yulia Lisitsa
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「母家と離れなので、家の中に入ってしまえば中で何をしているかは分かりません。でも、義祖母に義父母たちがしていた仕打ちを思えば、どういう状態かわかりそうなものでしたが、私は目をつぶりました」

義父は相変わらず、ひどく錯乱したり、正気に戻ったりを繰り返していた。この正気に戻るときが、義父自身にとって苦しいときに違いなかった。壊れていく自分を自覚する瞬間、誰もが恐ろしく、不安で仕方ないはずだ。

そんなときだった、半世紀以上連れ添った妻から、決定的な暴言を浴びせられたのは。

「もうこの人いらん。捨ててきて!」

2012年2月。義母は義父を指差し、近くにいた佐倉さん夫婦に向かって言い放った。その日以降、義父は誰とも口を聞かなくなり、飲み物も食べ物も受け付けなくなった。

当時、看護大学の学生だった佐倉さんの長女がどんなになだめてもお願いしても、お茶すら口にしてくれない。そして3日後の深夜3時ごろ。母屋の勝手口を叩く音で目が覚めた佐倉さんが扉を開けると、血相を変えた義母が言った。

「おとうちゃんが、息してない!」

慌てて離れへ行くと、義父はまだ温かかった。佐倉さんは119番に電話をかけながら、長女に心臓マッサージを指示。義母と夫はオロオロするばかり。義父は救急車内でAEDを施され、総合病院へ運ばれた。

しかし、しばらくして処置室から出てきた医師が、「もうよろしいですか?」と言う。察した佐倉さんが、「ありがとうございます。結構です」と答えると、佐倉さん夫婦と義母は処置室に入り、義父は臨終となった。86歳だった。