言葉を話す必要はない

今の社会でも人間同士が言葉を使って議論して理解し合うよりも、ネコと人間がハグして共鳴する方が、はるかに話が早く納得感が高いことも多い。溢れるネココンテンツを見ても明らかだ。

人間以外の種が使っている色々な表情やジャレ合い、音波や化学物質と、人間が使っているコミュニケーション手段の間に、何らかの翻訳が成立する予感もある。

ちょうど画像生成AIが人知を超えた独自のコミュニケーション言語を獲得したと報告されたところだ。ネコやゴキブリを愛し憎み、コミュニケーションした気になって責任を押しつけられる、そういう時代がくるかもしれない。

ネコやゴキブリでなくてもいい。より現実的で短期的には、VTuberやバーチャル・インフルエンサーのようなデジタル仮想人がそういう存在になっていくだろう。

VTuberが政治家の身代わりになって、生身の人間政治家への誹謗ひぼう中傷を引き受ける。その仮想人を鬱や自殺にまで追い込むとスッキリする……そんなサービスが出てくれば生身の人間も仮想人もWin-Winだ。

そして、VTuberや仮想人の人権を大マジメに議論する時代がくる。

意識や判断はアルゴリズムに委ねる

人間と非人間の融合、意識と無意識の融合は「民度」にも変化を迫る。

「民度が低いwww」。よく聞く民主社会への嘲笑の決め台詞だ。たとえば本書の第3章「逃走」で紹介している反民主主義運動やそのイデオローグは、典型的な民度運動だと言える。選ばれし高民度者たちのための理想郷を作ろうという運動だからだ。

しかし、民度を上げたり新しい民度を考えたりするのではなく、民度という概念をなくすことはできないだろうか? 私たちの意識や判断を頼っている限り、民度(つまり意識や情報や思考や判断の質)という概念からは逃れられない。

そこから逃れるために、いったん人類を、その中で起きている意識しているかどうか問わない生体反応の塊に還元する。つまり人間が見下している動物の世界にいったん還元してしまう。そして意識や判断はアルゴリズムに委ねてしまう。

有権者も政治家もいったん動物になってしまい、民度が低いも高いもない状態を作り出す運動が無意識データ民主主義だとも言える。無意識データ民主主義は、民度を必要とせず、あらゆる人を含む、開かれたもう一つの意思決定の仕組みの模索である。

ノートパソコンの画面上ではさまざまなデータ解析が行われている
写真=iStock.com/ipopba
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政治家はソフトウェアアップデートをするテスラの車に近い

こうして、アイドルとしての政治家、責任主体としての政治家はちょっとずつ蒸発しネコになる。残るは実務家としての政治家だ。

思い出そう。企業の中間管理職や事務職の役割は業務支援SaaS(Software as a Service)によってどんどん小さくなっている。個人の投資や健康・買い物の管理もどんどんアプリに委ねられるようになっている。政治だけ例外だと考える理由はない。